ウェルギリウスの歴史叙述-『アエネイス』第6巻の解釈を中心として-

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ウェルギリウスの歴史叙述-『アエネイス』第6巻の解釈を中心として-

1 はじめに

『アエネイス』第6巻の冒頭において,主人公アエネアスはヘレヌスの指示した通り(3.453ff.),シビュッラの予言を求めてアポロの神殿に赴く(6.9ff.).詩人はここでいったん物語の進行を中断し,神殿にまつわる縁起物語を紹介する(6.14-9).すなわち,噂 (6.14 fama)によるとダエダルスはミノスの王国を逃れ,クマエに到着するとアポロを祭る巨大な神殿を建造したという.続く箇所では,この神殿の扉に刻まれたダエダルスの絵に関して次のような描写が行われる(6.20ff.).

扉にはアンドロゲオスの死が,ついで,あわれ,罰を償うよう命じられたアテナエ人の息子たちの体が描かれる.毎年七人の若者を捧げることが定められていたのだ.籤を引く壷も立っている.もう一方の扉には隆起するクレタの大地が海に答えている.ここには牛への狂おしい愛,人目を忍び契りを交わしたパシパエ,さらには混血の子,道ならぬ愛の記念,すなわち二つの姿をもつミノタウルスが描き込まれる.一方こちらには困難をもたらす館と解くことのできない迷路とが描かれている.しかし王女 (アリアドネ(1))の激しい愛に同情したダエダルスは,(テセウス(2)の)盲目の足取りを糸を使って案内し,自ら館の欺きの仕掛けと迷路の謎とを解き明かした.汝もまたイカルスよ,父の悲しみが許したならば,これほどの作品の中に大きな部分を占めたことだろう.ダエダルスは二度息子の悲劇を黄金に彫り込もうと試みたが,この父の手は二度とも地に落ちた.
ここに示されるのはエクフラシスと呼ばれる叙事詩の伝統的技法であり,『アエネイス』では,第1巻のユノの神殿の絵 (466-93)においても認められる(3).オースティンはこの対応関係を認めた上で,各々の主題の相違に注意を促している(4).すなわち,ユノの神殿にはアエネアス自身の体験(=トロイア戦争)が描かれるのに対し,ダエダルスの扉絵には神話的エピソードが語られる,と.これはむろん明白な事実である.だがここで注目したいことは,これらの図柄と物語の進行との関わりの相違である.第1巻において,主人公は未知の土地(カルタゴ)に漂着し (1.157ff.),心中不安と希望が交錯する(5). しかし,ユノを祠る神殿に自らの体験を主題とする絵を見出したとき,大いなる救済の確信を得たことが示される(1.450-2).事実,絵の内容に関して簡単な言及がなされた後,アエネアスは次のような励ましを部下(アカテス)に与えている(1.462-3).

ここには人の世の営みに対する涙がある. 人間の行いは心の琴線に触れる.不安を取り去るがよい.ここに描かれる名声は何らかの救済を我々にもたらすだろう.
この言葉は,続く場面におけるディドの最初の言葉と対応することが明らかである.ディドは救済を直訴するイリオネウス(1.522ff.)に対して次のように答えている.

トロイア人よ,心から恐れを追い払い,不安は取り去るがよい(6).・・・アエネアスの一族について知らない者がいるだろうか.トロイアとその国民,その武勇の誉れ,またあれほどの戦争の猛火について知らぬ者は一人としていない.(1.562-6)
この対応は緊密なものであり,アエネアスがディドと対面する場面(1.595ff.)をスムーズに導入する上で重要な意味をもつと考えられる.

 これに対して,第6巻冒頭で語られるダエダルスのエピソードは,必ずしも物語の進行と密接な関連を有しない.むしろいつまでもこの絵を眺めるトロイアの一行に対し,シビュッラは「今は汝らにとってその絵を眺める時ではない」(6.37)と言い放つ.従来この扉絵の意義については,ここで示される神話上のエピソードと第6巻の他の箇所との関連が重視されるようである(7). だが,いずれの説も単なる対応関係の指摘に過ぎなかったり,象徴的解釈の域を出ないように見受けられる.本稿では『アエネイス』第6巻に繰り返し見出せる叙述技法の特徴に注目することにより,このエピソードの意義を考えることにする.このとき,ユノの神殿の絵との関連についても,新たな視点で捕え直す必要が出てくるだろう(8).

2.第6巻における叙述技法の特徴

 詩人は扉絵の描写(6.20-33)に入る前に,神殿の建造に関する物語-ダエダルスの神話上のエピソード-を紹介する.アエネアス一行にとり,目の前の神殿は現実に存在するものであるが,ダエダルスがこれを建てたかどうかについては何ら確証をもたない.fama(6.14)の語はこのことを示唆する(9). だが詩人は扉絵の描写を進めるうちに,感情移入を始める(間投詞 miserum (21)に注意).とくに,この描写の最後の部分おいて,絵に描かれていないイカルスの悲劇に触れ,「汝もまたイカルスよ,父の悲しみが許したならば,これほどの作品の中に大きな部分を占めたことだろう.ダエダルスは二度息子の悲劇を黄金に彫り込もうと試みたが,この父の手は二度とも地に落ちた.」(6.30-3)と締め括る.イカルスへの呼び掛け(10)は臨場感を高め,この言葉がアエネアスの心中を代弁しているかのような印象を与える.噂として聞いていたエピソードはもはや噂ではなく,絵を刻もうとして刻めなかった者の悲しみが(アエネアスおよび読者の)心の中でまざまざと蘇る.だがこのときアカテスがシビュッラとともに現れ,叙述は現実の世界に引き戻される.そしてもし彼らが現れなければ,「一同は目によってすべて(omnia)を飽かず眺めていただろう」(6.33-4)といわれる.「すべて」を詳述する機会-意志ではない-は失われるものの,初めに「噂」として挙げられたダエダルス・エピソードの真実性は損われることなく読者の胸に刻まれる.

 ところで,第6巻264-7において,詩人は次のような祈りの言葉を冥界の神々に捧げている.

冥界を支配する神々よ,沈黙の影たちよ,おお混沌よ,プレゲトンよ,静寂の限りなくひろがる夜の世界よ,聞いたこと(audita)を語ることが私に許されるように.汝らの神意によって,地中深く暗黒に覆われた出来事を明らかにすることが許されるように.
この表現についてオースティンは叙事詩の伝統的技法であるとして,『イリアス』第2歌484行以下との関連を指摘する(11).

今こそ私に語り給え,オリュンポスに住まうムーサたちよ-汝らは女神であり,その場に居合わせ万事を知っているが,一方我々は,ただ噂 (kleos)を聞いているだけで何一つ知ってはいない-ダナオイ勢の将軍たちや指揮官たちがどのような人々であったかを.イリオス城下に結集したこれほど多くの軍勢については,たとえ私に舌が十枚,口が十あったとしても,また嗄れることのない声と青銅の胸があったとしても,もしオリュンポスに住まうムーサたち,アイギスをもつゼウスの娘たち,汝らが教えてくれなければ,私には語ることも名を挙げることもできないだろう.では軍船の将軍たちと船隊の名を,これからあまねく述べることにしよう.
ここには(A)「その場に居合わせ万事を知る者」と,(B)「ただ噂を聞いているだけで何一つ知らない者」の対比が認められる.『イリアス』の詩人は「噂を聞いているだけの者」であるにも関わらず,ムーサの恩寵に与ることで軍船の将軍たちと船隊の名を「あまねく」(cf.2.493 propasas) 語る意志を表明する.むろん,文字通りすべての名を列挙するというのではなく,詩的技巧を凝らして全体を描こうというのである.実際には「部分」を描くに過ぎないが,読者には「全体」が描かれていると判断されるような工夫を詩人は凝らすことになる(12).他方,今挙げた『アエネイス』における祈願の言葉(6.264-7)において,詩人は「聞いたこと」(=噂)を伝える立場にあることを認める一方,冥界の神々に祈りを捧げることにより,自ら「暗黒に覆われた出来事を明らかにすること(pandere)が許される」と考える.pandereには真実を明らかにするという含意が認められる(13).

 ところで,この(A)と(B)の対比は,冒頭の扉絵の記述においても見出せるものである.ここでは,自己の体験を神殿の扉に彫り刻んだダエダルスとそれを「噂」(6.14 fama)として聞く者の対比が見られる.ダエダルスは扉絵の出来事を直接体験した者,すなわち(A)「その場に居合わせ万事を知る者」とみなしうるが,詩人は,あくまでこの神話上の出来事を(B)「噂(fama)として聞く者」でしかない.だが,ちょうどダエダルスが自己の体験の「一部」を描くにとどめる-イカルスの悲劇を描かない-ことによりその経験の真実性をあますところなく伝えるように,詩人はシビュッラとアカテスを登場させ扉絵の叙述を不意に切り上げることで,かえってダエダルス・エピソード-「噂」の「全体」(6.33 omnia)-の真実性を印象的に伝えている.

 この工夫は,第6巻の他の箇所を検討するとき,いっそう明瞭に理解されるだろう.この巻の中ほど(6.548ff.)にはタルタルスの描写があるが(14),この記述の初めに見られる「タルタルスのプレゲトン」(6.551)という表現は,先に見たプレゲトンへの呼び掛け (6.265)を想起させる.この対応が示唆するように,タルタルスの描写はいくつかの点で,冒頭の扉絵および冥界の神々への祈りの表現と緊密な対応関係を示している.まず,この描写が始まる直前において,シビュッラはいつまでもデイポブスと語り明かすアエネアスに対し,「我々は涙を流していたずらに時を過ごしている」(6.539)と注意を与え,次のようにいう.

ここで道は二手に分かれている.右手は偉大なディスの城塞の下に続く道で,目指すエリュシウムへの道となる.一方左は悪人たちを処罰し,容赦ないタルタルスに送り込む道である.(6.540-3)
ところが続く箇所において,詩人は期待されるエリュシウムへの行程を記述していくのではなく,逆にタルタルスの描写を開始する(6.548ff.).このように物語の展開を意図的に遅延させる手法は,巻頭のダエダルスの扉絵の場合にも見られたものである.

 アエネアスはタルタルスの城塞の中から呻き声や鞭の響き,鉄の鎖の軋む音を聞き,シビュッラにこう尋ねる.

いかなる罪の姿か,巫女よ語ってくれ.どのような罰を彼らは受けているのか.上空に昇るあの大きな叫び声は何なのか.(6.560-1)
これに対し巫女は次のように語り出す(6.562-5).

テウケルの末裔たちを率いる誉れ多き長よ,汚れなき者には汚れた者たちの敷居に踏み入ることは許されない.しかしヘカテがアウェルヌスの杜の長にと私を任じたときに,女神御自身が神々の与える罰を教え,またすべての場所を案内してくれた.
このやり取りでは,アエネアスの問いが叙事詩における伝統的なムーサへの呼び掛けに類似していること(15),アエネアスはタルタルスに足を踏み入れず,かわりにシビュッラの見聞を聞くという設定が用意される点が注目される.つまり,先に見た『イリアス』との関連でいえば,アエネアスは(B)「ただ噂を聞くだけで何一つ知らない」立場に置かれる一方,「すべての場所 (perqueomnia)を案内された」シビュッラは(A)「その場に居合わせ万事を知る者」の役を演じ,その見聞をアエネアスに伝える資格をもつ.他方,今挙げたアエネアスの問いに対して,この見聞を締め括る箇所でシビュッラは次のように答えている (6.625-7).

たとえ私に百の舌,百の口,鉄の声があるとしても,すべての (omnis)罪の姿を数え上げ,すべての (omnia)罰の名を挙げることはできないだろう.
この表現が先の『イリアス』の詩人の言葉と酷似する点は明白である(16).詩人は字句通り「全部」の名を挙げることはむろんできない.むしろ,何らかの詩的技巧を用いて「全体」を表す意欲のあることをここで示唆していると解される(17).

 続いてシビュッラは「さあ今は道を急げ,取り掛かった責務を全うするがよい.」(6.629) と述べ,見聞談を不意に切り上げる.この展開は再び第6巻冒頭を想起させるだろう.そこでは,神殿の扉絵を眺めていたトロイア一行に対し,シビュッラが「今は汝らにとってその絵を眺める時ではない」と注意を促すことによりダエダルス・エピソードが不意に打ち切られていたのである.これらの箇所において,詩人は取り上げたエピソードの「全体」(cf.6.33 omnia,626 omnis, 627 omnia) を物語る構えを示唆しながら,実際にはそれを描写する機会を途中で放棄する.読者は「語られた部分」から「語られなかった全体」に思いを馳せるよう促されるであろう.ダエダルス・エピソードの真実性に関しては,ダエダルスが残した扉絵そのものが動かぬ証拠を与えていた.一方タルタルス・エピソードについては,これが真実を語るシビュッラ(cf.6.100, 6.188-9)の言葉を介して描写される点に注意したい.さらにこのエピソードの導入部では,アエネアスがタルタルスの城壁の外観-プレゲトンに囲まれ,ティシポネが見張っている-を実際に眺めていること(6.548 respicit, 6.549uidet),またその内部からのうめき声,鞭打つ音,鉄や鎖をひきずる音を耳にし(6.557 exaudiri),驚愕のあまり(6.559 exterritus)足を止めたことが示される.すなわち,アエネアスはタルタルスの内部を見ることは許されないものの,その描写に関しては,視覚的にも聴覚的にも最も臨場感のある舞台の上で,最も真実を語ると期待される人物の言葉を耳にする.このような舞台設定にも,エピソード「全体」の真実性を効果的に伝えようとする詩人の技巧の跡を認めることができる.

 ところで,「全体を表す」というモチーフは,第6巻の巻末(6.679ff.)において繰り返し見出せる.このエピローグの導入部において-すなわちアンキセスとアエネアスの再会の場面に先立つ箇所で-アンキセスは未来のローマ人の霊を眺め(6.681 lustrabat),子孫の「すべて」(6.681 omnemque suorum)の名を数え上げていたことが示される(6.682 recensebat).一方,詩人は未来の偉人たちに関する記述-従来「英雄のカタログ」と称される(18)-を終えると,次のようにいう(6.886-9).

このように彼らはすべての場所(tota regione)を見て回り,ひろく霧の掛かった平原ですべて(の英雄の霊)を眺めた(omnia lustrant).アンキセスはそれら一人一人の間に(per singula)息子を導くと,やがて得られる誉れへの情熱によってその心に火をつけた.
表現上,6.681 omnemqueと 6.887 omnia の対応,6.681 lustrabat と 6.897 lustrantの対応が注目される.また,6.682 recensebatと 6.898 per singuladuxitは含意する意味において響き合う(19).第6巻のエピローグでは,この枠組み-「全体」の記述を志向する詩人の姿勢を強く示唆する-の内部において,アンキセスが将来生まれ来るローマの偉人たちをアエネアスに示すという設定がなされている(20).アンキセスは初めに「小高い場所を選び,そこからすべての魂が長い列をつくり(omnis longo ordine(21))向かい来るのを眺め(legere),近付く者の顔がよくわかるようにした」といわれる (6.754-5).一人一人の顔を識別することと,魂の長い列の全体を鳥瞰することは,上で見てきた「部分」と「全体」の対比として理解できるだろう.また巻頭のダエダルスの扉絵の描写において,「一同は目によってすべてを飽かず眺めていただろう」(6.33-4)といわれていたが,表現上,omnia…perlegerent (6.33-4)と omnis…legere(6.754-5)の対応は明らかである.扉絵の描写において,詩人はこの絵のディテールを詳しく描く一方-hicの反復 (6.24,27)に注意-,絵の「全体」を表す語としてomniaという語を用いていたことが想起される.

 ところで,詩人は未来のこととして-すなわちアエネアスにとっては未知(cf.6.711 inscius Aeneas)のこととして-これらの英雄の国家への貢献と活躍を紹介しているが,このローマの未来に関する予言は,『アエネイス』を読む読者にとっては,むろん過去ないしは現在の出来事である.読者はアエネアスとは異なり,エリュシウムの場には居合わせないけれども,アンキセスの語る一人一人の人物名,およびその人物にまつわるエピソードのすべてをあらかじめ知っていることが期待されている.詩人はここで文字通りすべてのローマの偉人の名を挙げているわけでは決してない.だがこれを読む者は,まるで自分が未来を予言するアンキセスと同様に過去から現在に至るローマ史の「全体」-ローマの運命(6.683 fataque fortunasque,759 tua fata(22))-を知っているかのような錯覚に襲われるであろう.

 このような「アンキセスと読者の共通の視座」というモチーフは,「英雄のカタログ」の末尾を飾るマルケッルスの記述においていっそう強調される(23).アンキセスは,この若者について涙ながらにこう語る(6.868-86).

おお息子よ,おまえの一族の大きな悲しみについて尋ねるな.運命はこの子を地上にただ見せるだけで,それ以上長く留まることを許してはくれないだろう.神々よ,ローマの子孫はあなた方にはあまりに力あるものと映ったのであろう,もしこの贈り物が永くローマのものであったならば.…ああ,哀れな子よ,おまえが厳しい運命を打ち破ってくれたなら.おまえはマルケッルスとなるのだ.両手一杯に百合をくれ.紅の花を撒くのだ.この子孫の魂の上にせめてこの贈り物を山のように捧げ,虚しい務めを果たすとしよう.
アンキセスの言葉に込められた万感の思いは,この若者の死を弔ったばかりのウェルギリウスの同時代人に共通する心持ちであっただろう(24).とりわけ,父と子を示す語の反復(854,863,864,867,868,882)は,いやがおうでもマルケッルスを失ったアウグストゥスの悲しみを推測せしめる(25).だが,まさにその点において,この記述は第6巻初めの扉絵の叙述と対応するのである.イカルスを失ったダエダルスの悲しみは,息子の悲劇を自ら扉絵に描き得なかった事実-少なくともアエネアスにはそう思われたはずである-を想起することでより強く胸に迫る.同様に,詩人はここでアウグストゥスの悲しみに一切言及しないにも関わらず,その計り知れない大きさを印象づけている(26).扉絵の描写における詩人の感情移入についてはすでに触れたが,マルケッルス・エピソードではそれがいっそう強い形で現れる.ダエダルス・エピソードはあくまで神話上の出来事にまつわる「噂」であるのに対し,マルケッルスの死はアウグストゥスはもとより,ウェルギリウスおよびその読者の身近で起きたあまりにも痛ましい事件であった.これを読む者は,ローマの未来を予言した記述の真実性を決して疑い得なかったであろう(27).

 このように詩人は現実のローマの出来事-アウグストゥスによる平和国家の樹立,マルケッルスの死など-を詩における未来の出来事として予言している.このとき,詩人自らが(A)「その場に居合わせ万事を知る者」の立場を代表し,「何も知らないアエネアス」(6.711 inscius Aeneas)の立場と対比されることになる.なるほどシルウィウスやロムルスを初めとする伝説上の人物への言及に関していえば,詩人はあくまでも(B)「ただ噂を聞いているだけで何一つ知らない者」の立場に終始する.だが,アウグストゥスやマルケッルスに関する記述を読み,ここに真実の語られていることを確信する読者は,他の叙述に関しても同様に真実であるとの印象を抱くであろう(28).

 他方,巻頭で扉絵を見るアエネアスにとり,ダエダルスのエピソードは自らの体験(扉絵を見るという行為)に先行する歴史上の出来事として把握される.またタルタルス・エピソード(6.548ff.)においては,神話に登場する神や人間の名(ラダマントゥス,ティシポネ,ヒュドラ,大地(ゲー),ティタンの種族,ユピテル,サルモネウス,ティテュオス,イクシオン,ピリトウス,テセウス,プレギュアスなど)が挙げられる一方で,固有名詞を伴わない一般化された罪人の種類が語られている(6.608ff.(29)). 言い換えれば,aeternumque(6.617)の表現が示唆するように,神話と普遍化された人間の世界がここで描かれていることがわかる.これは本質的に現実の歴史的世界とは異なるものである.しかし,ステュクスを守るカロンは,アエネアスに対し,自分がかつてヘルクレスやテセウス,ピリトウスを舟に乗せて渡したことを認めている (6.392-4).このうちテセウスとピリトウスは,タルタルス・エピソードにおいても言及されている(6.617-20(30)).とくにテセウスについて整理すれば,アエネアス以前に冥界に降りたこと(6.393)(過去),今罪人としてタルタルス内部にいること(6.617 sedet)(現在),そして永久にここに座り続けるであろうこと(6.617aeternumque sedebit)(未来)が明示されている.すなわちテセウスの神話上のエピソードは,アエネアスの体験と時間的に前後関係をもつものとして語られる点が注目される.この叙述技法は,ダエダルスの扉絵の描写-ここではテセウスのクレタ島におけるエピソードが暗示される-においてすでに認められるものといえる.他方これとパラレルをなす形で,詩人はアエネアスの物語を読者の生きる現実世界から見た過去の出来事として紹介している.アエネアスによるローマ建国の物語は元来神話上の出来事とみなされるが,詩人はこれを読者の体験に先行する過去の出来事として描いたのである.

 以上見てきたように,第6巻の(1)ダエダルスの扉絵の記述,(2)冥界の神々への祈願,(3)タルタルス・エピソード,および(4)アンキセスによる「英雄のカタログ」は,いずれもムーサに祈願する『イリアス』の詩人の言葉と密接に関連付けられる点で注目される.すなわち,(A)「その場に居合わせ万事を知る者」と(B)「ただ噂を聞いているだけで何一つ知らない者」の対比の構造は,これら(1)~(4)のいずれの箇所においても見出せる.また,詩人は基本的に過去の出来事を「噂」として聞く立場でありながら,その「すべて」を語り得る可能性を示唆する点で『イリアス』の詩人との共通性を明らかにしている(このとき「部分」と「全体」の対比が重要な意味をもつことが窺われた).しかし一方において,詩人は『イリアス』に見られない別の技法-神話の歴史化という手法-を導入していることも明らかとなった.それではこれらの叙述技法を用いることで,詩人は何を表そうとしたのか.

3.第1巻と第6巻の対応について

 ここで,第6巻と第1巻の対応関係に注目してみたい.第1巻ではカルタゴ上陸の場面に続いて,ウェヌスとユピテルの対話の場面が用意される(223ff.).ウェヌスはイタリアからトロイアの一行が遠ざけられている事実を指摘し (1.233,252),それがユピテルの約束-未来のローマ人による支配の約束-に反すると訴える.これに対しユピテルは,アエネアスおよびその子孫に定められた運命は不動であると述べ(1.257-8),その秘密(1.262)を順々に解き明かしていく.ユピテルは,主人公アエネアスの未来の神格化(1.259-60),アスカニウスによるアルバ・ロンガの建設 (1.271),ロムルスによるローマの建設 (1.276-7),アウグストゥスの事績とその神格化(1.283-90)などについて語っているが,とくにウェヌスの言及した未来のローマ人による世界支配に関連し,ローマ人には「際限のない支配権を与えてある」(1.279)と言明する.この言葉を字句通りに受け取るなら,詩人はここで単に主人公アエネアスのみならず,読者にとっての「未来」の出来事を予言していると解される.

 さて,この対話の直後にアエネアスはウェヌスと出会い(1.305ff.),相手が母とは気付かずに,自分たちがいかなる岸辺に漂着したのかを問う(1.331-2).これに対し,ウェヌスはここがディドの支配するカルタゴの地であると伝え,カルタゴ建国にまつわるディドの過去の体験を詳らかにする(1.338ff.).ウェヌスはまず「(ディドの受けた)不正は語れば長くなるし,その紆余曲折も長い話です.そこで私は出来事の要点を掻い摘まんでお話ししましょう.」 (1.341-2)と述べる.ウェヌスは語ろうと思えば出来事の全体を語ることはできるのだが,ここでは重要と思われる点に絞って物語るという.すなわち,出来事の「部分」を語ることで「全体」を表現しようとする詩人の立場をここに見出すことが可能である(31).

 ウェヌスが語る内容は,アエネアスが目の前で見ている城塞(1.365-6)に関する縁起物語となっている.ディドは兄を逃れ(fugiens)テュロスの国を後にした(1.340-1).実の兄によって愛する夫を失ったディドは,夫の霊の命ずるまま地中に埋められた金と銀の大塊を船に積み入れるとカルタゴに逃れたのである.カルタゴに漂着したディド一行は感謝の印としてユノの神殿を建立した(1.442-7).一方fugiensという語は,第6巻初めで描かれるダエダルス・エピソードにおいても見出し得る.ダエダルスもミノス王の支配を逃れ (fugiens)クマエの地に着くと,アポロへの感謝を表してその神殿を建立した(32).

 ウェヌスが舞台を去った後,アエネアスはユノの神殿に近付いていく.だがこの神殿を「細部に渡り打ち眺め」(1.453 lustrat…singula),そこに見出された絵の中に「順々に」(1.456 ex ordine) 描かれた出来事を見るにつけ,アエネアスははからずも涙にむせぶ (1.459 lacrimans).なぜなら,そこで見たものは,ほかならぬ「自己の体験」=「トロイア戦争」の絵であったからだ.アポロの神殿の扉絵は,そこに描かれる出来事の体験者その人-ダエダルス-が刻んだものであるが,ユノの神殿にはすでに全世界で語り継がれる「噂」(1.457 fama)となったトロイア戦争の出来事が描かれる.また,その真実性は「その場に居合わせた者」アエネアスの流す涙が証明するであろう.この点で先に見た第6巻終りのマルケッルス・エピソードとの関連が考えられる.一方,(A)「その場に居合わせ,全体を知る者」と(B)「噂としてそれを聞く者」の対比は,ここではダエダルスの扉絵の場合とは逆の形で認められる.すなわちユノの神殿の作者が(B),絵を見るアエネアスがむしろ(A)の立場をとる. また表現において,1.453 lustrat dum singula と 1.456 ex ordineは,いずれも第6巻の「英雄のカタログ」の中で,出来事の「全体」を語ろうとする詩人の意志と密接に関わる形で用いられていた(cf.6.887-9 omnia lustrant./…per singula duxit.).このように「ユノの神殿の絵」は,単にダエダルスの扉絵との比較が可能であるばかりではなく,第6巻において明らかにされた詩人の歴史叙述の技法を色濃く反映しながら,「主人公の過去の出来事」を物語っていることが窺える.

4.結びにかえて

 以上見てきたいくつかの対応・対比関係を整理すれば,次のようになるだろう.詩人は「全体」を志向する『イリアス』の詩人の言葉を念頭に置きながら,次の各要素について物語ろうとする.

(a) 「主人公の過去」………………………「ユノの神殿の絵」

(a)’「主人公の未来」………………………「ユピテルとウェヌスの対話」,

「英雄のカタログ」

(b) 「読者の過去・現在」…………………「英雄のカタログ」

(b)’「読者の未来」…………………………「ユピテルとウェヌスの対話」

(c) 「神話上の人物の過去」………………「ダエダルスの扉絵」

(c)’「神話上の人物の過去・現在・未来」……「タルタルス・エピソード」

ウェルギリウスの独自の視点とは,読者の生きる時代の出来事を詩の中で「未来」の出来事として予言する点にあると思われる.第6巻末の「英雄のカタログ」で描かれる主人公の未来とは,読者にとり確定された過去(および現在)の出来事にほかならない(すなわち(a)’=(b)).また第1巻のユピテルの予言は,アエネアスの未来を語ると同時に,現実の-さらには未来の-ローマに生きる人間に与えられた予言でもある((a)’=(b)’).このように,詩人は本来神話上の出来事とされるアエネアスの体験と読者の体験とを分かち難く結び付けている.一方,ダエダルス・エピソードにせよ,タルタルス・エピソードにせよ,詩人はこれらの神話上の出来事を,アエネアスが目の前の絵を通じて,あるいは巫女の言葉を通して「間接的に」知るという設定を行っている.しかしダエダルスが扉絵を刻んだ事実は,アエネアスにとり疑う余地のないものであった.また足を踏み入れぬとはいえ,呻き声の聞こえる城門を目の前にし,アエネアスはシビュッラの語る見聞談を真実として受け入れたであろう.こう解するとき,アエネアスの経験(a)と神話上の出来事(c)は互いに歴史的前後関係をもつものとして結び付く.一方このことは,詩中に語られるアエネアスの体験を,詩人の言葉を通じて「間接的に」知る読者の立場と呼応する.そしてこの詩人の言葉の真実性についてはムーサが保証するであろう.上で見てきたそれぞれのエピソードにおいて,詩人は絶えず『イリアス』におけるムーサへの呼び掛けを読者に想起させながら,詩的真実を語る自らの姿勢を示唆していたのである.

 上記(a)~(c)の各要素の内容が示すように,詩人は読者も含めた「すべて」の人間について,その過去・現在・未来の出来事をあまねく物語ろうと試みる(33).また,同時代の読者のみならず,未来の読者も念頭においてこの詩が書かれたことはいうまでもない.ユピテルによって約束される「際限のない支配権」(1.279)とは,アウグストゥスの治世以降においても継承されるべき理念であった.『アエネイス』の冒頭において,「私は一人の英雄と戦争について歌う」といわれるが(1.1),この詩が主人公の限られた経験を描くものでないことは明らかである.悠久の時の流れと永続する人間存在を想定するとき,そのほんの「一部」-一人の英雄の運命-を語るに過ぎぬこの詩において,人間の歴史の「全体」を語ろうとしてやまない詩人の意図を読み取ることは可能であろう(34).本稿で取り上げた第6巻冒頭の「ダエダルスの扉絵」を初めとするいくつかのエピソードも,このような詩人の歴史叙述の技法との関連において改めて解釈し直す必要があるように思われる.

テクストは, R.A.B. Mynors (ed.), P.Vergili Maronis Opera, O.C.T. 1983を使用した.

 (1) 6.28 reginaeをパシパエとみなす解釈もあるが (cf.B.Otis,Virgil, A Study in Civilized Poetry, Oxford 1964, 284 n.1),通例アリアドネと解されている.R.G. Austin, P.Vergili Maronis Aeneidos Liber Sextus, Oxford1977, ad 6.28ff.,R.D.Williams, The Aeneid of Virgil,Books 1-6, London,ad 6.28.

 (2) 6.30 uestigiaはテセウスの足取りと解される.Cf.Austin (supra n.1),ad 6.30.

 (3) Cf. R.D.Williams, The Pictures on Dido’s Temple, CQ n.s.10, 1960,145ff. さらに,第8巻の盾の描写(8.630-728)においても,エクフラシスの技法は用いられる.本稿ではこの箇所の解釈には立ち入らないが,第6巻において見出される叙述技法は,第8巻においても重要な意義を有すると考えられる.この点については稿を改めて論じたい.

 (4) Austin (supra n.1), ad 6.14-41.

 (5) Cf.1.208-9,305ff.,332-3.

 (6) 原文は,soluite corde metum, Teucri, secludite curas. この表現は,アエネアスのアカテスへの言葉 solue metus (1.463)と対応する一方,ユピテルのウェヌスへの言葉 parce metu(1.257)とも関連づけられる.ユピテルはメルクリウスを遣わし,ディドがトロイア人を暖かく受入れるよう働きかけていた(1.297-304).

 (7) E.Norden, Aeneis Buch VI, Berlin 1916, ad 6.14ff. は,このエピソードが叙述を遅延させ緊張感を損う,と否定的にとらえるが,Austin (supra n.1), ad 6.14-41 は,ここに見られる殺害,罰,道ならぬ愛のモチーフが,続く主題の展開に暗い翳りの色合いを与える点に注意を喚起する.他方,Otis(supra n.1), 284, Williams (supra n.1), ad 6.1f. は,ミノス王の迷宮とアエネアスが足を踏み入れる冥界との類似性について,さらには扉絵に見られる神話上のエピソードがアエネアスの過去の体験を象徴的に表している点を指摘する.Williams はさらに,ダエダルスとイカルスの父子関係がアエネアスとアスカニウスの関係を想起させると解す.その他,R.J.Clark, Catabasis, Virgil and the Wisdom-Tradition,Amsterdam 1979,149, E.Henry,The Vigourof Prophecy, A Study of Virgil’s Aeneid, Bristol 1989, 142 参照.

 (8) 例えば Otis (supra n.1), 284-5 によれば,アエネアスは冥界でパリヌルス,ディド,デイポブスの霊に会うが,これは主人公に過去の体験を想起させる点でダエダルスの扉絵の記述と対応し,同時に第1巻のユノの神殿の絵とも対応するという.ただし第1巻では主人公の heroic pastが,第6巻ではerotic pastが示される,と.しかしアエネアスの直接体験を反映する箇所と,アエネアス以外の人物の体験を表す箇所(ダエダルスの扉絵)とを同じ次元で比較することには無理がある.

 (9) ダエダルスのエピソードは詩人と読者のみならず,アエネアス一行にとっても「噂」(fama)として把握されるものである.アエネアス自身,このエピソードについてある程度の予備知識をもっていたからこそ,その絵の世界に没入できたのである.

 (10) 叙事詩におけるアポストロペーの機能については,中務哲郎「ホメロスにおけるアポストロペーについて」,京都大学文学部研究紀要 32,1993 参照.

 (11) Austin (supra n.1), ad 6.264-7.

 (12) この詩作上の工夫については,岡道男『ホメロスにおける伝統の継承と創造』,東京 1988,71参照.

 (13) Cf.3.251f.: quae Phoebo pater omnipotens mihi Phoebus Apollo/

praedixit, uobis Furiarum maxima pando. 6.723: Anchises atque ordine

singula pandit.

 (14) タルタルス・エピソードに関する論考として,岩谷智「ウェルギリウス『アエネイス』第六巻 548-627「タルタルス」考」,西洋古典論集 2, 1986,22-44 参照.なお Austin (supra n.1), ad 548-61 は,この描写自体をエクフラシスとみなしている.

 (15) 6.560 effareは叙事詩特有の表現とみなしうる.Cf. J.Conington (J.Conington-H. Nettleship, The Works of Virgil Vol.II, London 1884 (Hild-ensheim 1963), ad 6.560.

 (16) エンニウスの表現 (Ann. 561ff.)との関連も指摘されるが (cf.Austin,(supra n.1) ad 6.625ff.,本稿では『イリアス』第2巻にみられるムーサへの呼び掛け全体との関連を重視する.

 (17) 6.625-7と Geo.2.42-6との関連も考えられる.Cf. Williams (supra n.1), ad 6.625-6.『農耕詩』第2巻では植物の多様な生育方法や栽培技術が紹介された後,2.89-108において「イタリアワインのカタログ」が見られる.カタログを締めくくる箇所では次のようにいわれる.

だがこれらにどれだけの種類があり,どのような名前があるのかについて語り出せば切りがない.また実際に数え上げようとしても無益である.それを知りたいと思う者は,さながらリビュアの砂漠の砂粒が西風によってどれだけ多く空に舞い上がるのかを知りたいと望む者とよく似ている.あるいは東風が激しく船に襲い掛かるとき,どれだけの数のイオニアの大波が岸部を打ちつけるかを知りたいと望むようなものである.

この箇所をめぐる解釈については,T.Yamashita,The theme of Variety in the Georgics, 西洋古典論集 9, 1991, 56 参照.

 (18)「英雄のカタログ」をめぐる解釈については,山沢孝至「『アエネーイス』におけるマルケッルス追悼の詩句について」,西洋古典論集 7, 77-98 参照.

 (19) 6.898 per singula duxitは,一方においてタルタルス・エピソードにおける 6.565 per omnia duxitの表現を想起させる.また6.898 singulaは,6.723 ordine singula pamditと対応するが,6.723自体直前のアンキセスの科白における 6.717 enumerareを受けている.

 (20) 本稿では 6.854-86に示されるマルケッルス・エピソードも「英雄のカタログ」に含めて理解する.この視点については,本文で紹介した枠組みが一つの根拠を与えている.なお,このエピソードの意義については,詩人の叙述技法との関連で後述する.

 (21) 6.754 omnis longoは一方において6.482 omnis longo ordine cernensと対応しつつも,さらには6.723 ordine singula pamditの表現を想起させる.なお ordineの語は第1巻のユノの神殿の絵に関しても用いられている(1.456 Iliacas ex ordine pugnas).この点については別の角度から後述する.

 (22) 6.759 tua fataは6.683 fataque fortunasqueと呼応しながらアエネアス及びローマの運命を意味すると解される.

 (23) 山沢孝至『前掲書』78以下参照.

 (24) 山沢孝至『前掲書』注44参照.

 (25) マルケッルスはアウグストゥスの甥に当たる.

 (26) むろんこの悲しみは,ひとりアウグストゥスの悲しみと特定できるわけではない.マルケッルスの死を我が事のように嘆く者の悲しみがすべてここに凝縮して描かれる.

 (27) 『イリアス』との関連でいえば,詩人および読者は「その場に居合せ全てを目撃する者」とみなしうる.

 (28) ウェルギリウスは,読者の体験する歴史的事実を詩中における未来の出来事として予言することにより,その叙述全体の真実性の確証を与えている.一方アエネアスの未来についてはシビュッラが予言し,その真偽をアエネアスが自らの体験を通じて確認する,というパターンも見出せる.この二つのパターンの並置を明瞭に示す例として,6.125以下が挙げられる.シビュッラはカタバシスの条件として,(1)黄金の枝を発見し取ってくること(6.136ff.),(2)死んだ友の埋葬を行うこと(6.149ff.)の二つをアエネアスに告げている.これらの条件は,当初アエネアスにとって「盲目の出来事」(6.157-8 caecosque…euentus)とみなされる.しかしやがて物語の進行とともに,シビュッラの言葉の真実性は明らかになる.アエネアスは砂浜を歩くうちにミセヌスの死体を発見し(6.162ff.),次のようにいう (6.188-9).

ああこれほどの森の中,もしあの金の木の枝が,今我々にその姿を見せてくれたなら.ミセヌスよ,かの巫女はおまえのことをすべて(omnia)あまりに正しく(uere)言い当てたのだから.

一方,詩人はミセヌスの生前の誉れを語り(6.164-70),次いで噂として伝わる(cf.si credere dignum est) 彼の死因にふれ,ミセヌスはトリトンの怒りを買って岩間に溺れ死んだことを伝える.さらにアエネアスが築いたミセヌスの墓 (6.232) に触れ,その土地が今でも彼の名にちなんでミセヌスと呼ばれること,何世紀にも渡って永遠にその名 (aeternumque…nomen)を残すだろう,という (6.234-5).ミセヌスの名をもつ土地の存在に関して,読者はその真実性を自らの体験を通して確かめることができる.

 (29) ただしテセウスとプレギュアスは除く.彼らは6.617-20において言及されている.

 (30) 伝統的にヘルクレスはテセウスとピリトウスを冥界から救出している.『アエネイス』第6巻392-4ではこれら三名が,かつてステュクス川を渡った人物として挙げられながら,タルタルス・エピソードにおいてはヘルクレスへの言及が見られないばかりか,テセウスは永久にこの場所に座り続けるといわれる.ウェルギリウスは伝承を改変し,ヘルクレスによる救済はなかったとみなしているのか,あるいはそれがアエネアスの冥界行の後に実現すると暗示しているのか,必ずしも定かではない.いずれにせよ,詩人はアエネアスの体験とテセウスのそれとが時間的に前後することを示している.

 (31) この立場は続くアエネアスの科白(1.372ff.)においても見出せる.これらの箇所に示唆される「部分」と「全体」の対比は他の巻においても認められる(cf.3.377-9).

 (32) 表現上,第1巻のユノの神殿 (1.446 templum Iunoni ingens)と第6巻のアポロの神殿 (6.19 immania templa)は,ともにingensという語によって修飾される点でも対応を示す.

 (33) ユノの神殿において,アエネアスの体験したトロイア戦争の「噂」はすでに全世界に広まっていることが示される.同様に,詩人が『アエネイス』を通じて語る内容は,空間的に広大な範囲で,時間的には永遠に語り継がれることが期待される.

 (34) 岡道男『前掲書』71 注1),同「ウェルギリウスの英雄像」,『ギリシア・ローマの神と人間』,東海大学出版会,1979,373 参照.

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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