『農耕詩』における独創性の問題
山下太郎
序章
ウェルギリウス(前70―前19)の『農耕詩』は、2188行からなる教訓詩であるが、そのうち約半分は、農耕の教えとは一見無関係とも思えるような「脱線話」(ディグレッション)から成り立っている(1)。とくに、全巻の最後に置かれた「アリスタエウス物語」(4.315-558)については、「なぜここにこのような物語があるのか」と疑うような内容となっており、古来多くの学者の関心を集めてきた。そのあらすじを簡単に紹介すれば次のようになる。
牧人アリスタエウスは、飼っていた蜜蜂を突然失い、母親キュレネに不満を浴びせたところ、すべてを知る老人プロテウスをとらえ、その原因を尋ねるように忠告される。プロテウスによれば、アリスタエウスに追われ毒蛇に命を落とした妻エウリュディケを悲しんで、オルペウスが呪いをかけたという。この予言者はさらに、オルペウスが冥界の王の許しを得て死んだ妻を地上に連れ戻すことを試みたが、「後ろを振り返ってはならない」という王の約束を守れずにその試みが失敗に終わったこと、またその結果、愛をかたくなに拒み流浪の旅を続けるオルペウスが、キコネス族の女性の怒りをかって殺されたこと、などのいきさつを語る。真相を知ったアリスタエウスは母の命ずるとおりの仕方で森のニンフへ祈りを捧げたところ、果たして蜜蜂の再生に成功した。
さて、このエピソードの意義は、当然のことながら、作品全体の主題を問い直すことによって考察されるべきである。あるいはその過程で何らかのヒントが得られると期待できる。同様に、その他の「脱線話」も、作品全体の主題と何の関わりも持たぬ単なる脱線話にすぎないのか、それとも作品をより深く理解する上で重要なヒントを与えてくれる箇所なのか、改めて問う必要があるだろう。
本稿では、この詩に見られる多様性のテーマを手がかりとして、「アリスタエウス物語」を含めた各々の「脱線話」と作品全体のつながりを考察しようと思う(2) 。第一章は、このテーマの分析に充てられるだろう。第二章および終章ではその成果をふまえ、「アリスタエウス物語」解釈の新しい可能性を示唆したい(3)。このとき、作品で繰り返し示される独創性のモチーフの意義を新しい観点から再検討することになるだろう。
第一章 農耕詩における多様性のテーマ
一 ヘシオドスの語る五時代説話とルクレティウスによる改変
従来の『農耕詩』解釈は、この詩に反映するヘシオドス(前八世紀末頃)の『仕事と日』の影響を重視する。この解釈の伝統に従えば、ウェルギリウスは『農耕詩』を通じて、「労働は正義である」(4)とするヘシオドスの教えを改めてローマの国民に喧伝した、と解されることになろう。しかしながら、この作品に見られるローマの教訓詩人ルクレティウス(前九四―前五五頃)の影響も無視できないように思われる。そこで以下において、ヘシオドスの示した黄金時代のテーマが、多様性のテーマとしてこの作品に取り入れられている事実に注目したい。このテーマは単にヘシオドスのみならず、ルクレティウスの思想的影響を色濃く反映したものとみなすことができるからである。
古代ギリシアの詩人ヘシオドスによれば、遠い過去には神と変わらぬ黄金の族がいて、心に憂いなく、争いを知らず、あらゆるよきものに恵まれて暮らしていたことがいわれる(『仕事と日』 109-120)。一方、現実は悲惨な鉄の種族の代であり、人は日夜労働と苦悩に苛まれている。ヘシオドスによれば、人間の苦悩は、プロメテウスがゼウスを欺き、火を盗んだ事実に起因する。怒ったゼウスは火盗みの罰として、人間に様々な苦難をもたらした(43-105)。ヘシオドスはこのような神話を語りながら、人間がゼウスの正義を信じ、労働に励まなければならない理を説いている。この五時代説話のエピソードは、いわゆる黄金時代のテーマとして、後代の多くの詩人たちに様々な形で詩的着想を与えることになった。ルクレティウスとウェルギリウスもその例外ではない(5)。
ルクレティウスは、教訓詩『万物の本性について』を通じ、エピクロス哲学をローマ国民に紹介した詩人である。エピクロスは宇宙法則を独自の原子論によって解釈したが、その狙いは心から苦悩を取り去ること、アタラクシアを得ることにあった。人間世界の出来事に神の介入を認めることは、人を恐怖と苦悩に導く誤った考えの際たるものである。人間は正しい自然法則の理解によって、迷信を否定しあらゆる苦悩から解放されるだろう(1.62ff.; 1.146-158など)。
この詩人は、ヘシオドスの示した黄金時代のテーマを導入し、エピクロス哲学の正しさを効果的に訴えている(6)。ヘシオドスはゼウスの罰として過酷な労働が人々を苦しめると解したが、ルクレティウスによれば、大地も原子の集積である以上、誕生、老化、死のサイクルを免れない。老いた大地がもはや多くを生み出さないのは当然である(2.1105-52)。実際、現実の農耕の困難については、次のように説明している(2.1157-1174)。
さらに、大地は初めて人間のために、繁茂する穀物や豊かな葡萄樹を生み出し、甘い果実や、豊かな牧草を与えてくれた。これらの産物は今では、我々の労働を尽くしたところで、とうてい増加するものではなく、牛や農夫の力をいたずらに疲弊させ、鍬を磨滅させるばかりである。その結果畑から得られる収穫はほんの僅かであり、それほどまで畑は実りを出し渋り、我々の労働を増やそうとしている。今や老いた農夫は首を振り、労苦も徒労に帰するといっては嘆息を重ね、今の世を過去の時世と比べて、祖先の幸運をしばしば称える。枯れてしなびた葡萄を世話する者も、同様に悲しみにくれ、時の動きを罵っては天を呪う。そして昔の世は、めいめいの土地が今より遥かに狭隘であったのに、敬虔の念に篤く、僅かの土地でもきわめて安楽に暮らしていけたものだと愚痴をこぼすのである。万物が徐々に朽ちていくのだということを、また老衰のために疲労しきって、破滅に向かっているのだということを解しない。
これに対し、過去の人間にも現在の人間にも変わらぬ共通点が認められる。富や名声への欲望がそれである。過去においては動物の皮、現在では緋色の衣や黄金が人間の欲望に火をつけ、戦争へと導いていく(5.1423-24)。詩的技巧との関連でいえば、ルクレティウスは黄金の輝きを人間の欲望の象徴として描くとともに(2.24, 27, 28, 51)、何ものにも動じない心の平静、即ちアタラクシアに対しても黄金のイメージを付与している(3.1-13)。
かくも大いなる暗黒の中から、かくも燦然と輝く光を初めて掲げ出し、生命の喜びを照らし出したお方よ。おお、ギリシア民族の誉よ、わたしはあなたの後に従おう。(中略)あなたは父であり、真理の発見者であり、父としての教えを我々に授けて下さった。高名な方よ、我々はさながら蜜蜂が花咲く野原で蜜を味わい尽くすように、あなたの書物から黄金の言葉(aurea dicta)を、永遠の生命に常に価する黄金の言葉を味わおうとする。
ここで示唆される内面の平和は、暗黒に輝く黄金のイメージを与えられながら、ヘシオドスの描く黄金の種族の生活を想わせる。即ち、ヘシオドスによれば、この時代の人間は、「心に悩みもなく、労苦も悲嘆も知らず、神々と異なることなく暮らしていた」(『仕事と日』112-113)といわれている。しかしながら、ヘシオドスは正義と労働に立脚した社会が、現実世界で豊かさを実現すると考えたのに対し( 225ff.)、ルクレティウスは、外界の悪条件がいかに人間を苦しめようとも、理性(ratio)を正しく用いるならば、内面においてはヘシオドスの黄金の種族のような生活を楽しむことができると示唆している。いい換えるなら、人間は失われた黄金時代の要素を部分的に、即ち内面において回復できると主張していると考えられる。
二 ウェルギリウスによる黄金時代のテーマの受容
一方、ウェルギリウスの場合はどうか。『牧歌』第四歌では、「黄金時代が再来する」という考えが明瞭に示されている(4-7)。
クマエの予言の告げる、最良の時代が今訪れる。偉大なる世紀の秩序がふたたび生まれる。今や正義の女神が戻り、サトゥルヌスの王国がよみがえるだろう。今や新しい血筋が、高き天より遣わされる。
このように、黄金時代はサトゥルヌスの時代の再来(7)として語られるが、そのビジョンはへシオドス的黄金時代の無為と安穏を理想とする(38-40)。
商人は自分で海から退き、松材の船も商品を運ぶことはなくなるだろう。すべての土地がすべてのものを生み出すであろう。大地が犂に、葡萄の木が大鎌に苦しむこともなくなろう。
これに対し、続く『農耕詩』においては、ほかならぬローマにおいて黄金時代が再来する可能性が暗示される(8)。例えば、第二巻エピローグの「農耕賛歌」では、次のようにいわれている(2.513-538)。
農夫は、曲がった鋤で大地を耕す(9)。これこそ年々の労働であり、こうして祖国を支え、幼い孫たちと牝牛の群れと忠実な牡牛を、養い育てていけるのだ。一年があり余るほどの果実、家畜の仔、穀物の束をつくり出し、その実りが畝に重くのしかかり、納屋に満ち溢れるまで、農夫に休息はない。(中略)かつて古のサビニ人も、レムスとその兄弟もかかる生活を営んでいた。まさにこうしてエトルリアは強大になり、ローマも七つの城塞を城壁で一つにつなぎ、世界で最も素晴らしい国になったのだ(10)。ディクテの王(=ユピテル)がまだ笏をもたず、神を恐れぬ人間が、牡牛を殺して食う以前には、黄金のサトゥルヌスが大地でかかる生活を営んでいた。
このように、家族を守り仲間と共に労働に精を出す農夫の暮らしが、黄金のサトゥルヌスの生活にたとえられることから、このエピローグにおいては、黄金時代の再来が示唆されているとみなしうる。しかしながら一方では、現実がユピテルの統治下にあること、そのユピテルがサトゥルヌスの黄金時代を終焉させたことも明示されている。事実、第一巻のエピローグを見れば、ユピテルの治める現実は、むしろ鉄の時代と呼ぶにふさわしい(11)(1.505-508)。
ここでは、正邪の観念が逆転し、世には戦乱が相次ぎ、犯罪は様々な形を取って現れ、誰一人、鋤に対して、払うべき敬意を払わない。農夫が去ったために畑は荒れ果て、曲がった鎌は鋳つぶされて、硬い剣になっている(12)。
ウェルギリウスにとって現実は、鉄の時代なのか、黄金時代なのか & 。この問題をめぐっては、従来アレゴリカルな説明が行われる(14)。即ち、この作品の書かれていた頃、ローマにおいては長期にわたる内乱が終りを告げ、アウグストゥス帝のもとで、平和で秩序ある理想国家が生まれようとしていた。この歴史的事実は、五時代説話との関連でいえば、「鉄の時代が終焉し、今まさに黄金時代が到来する」と表現しても差し支えなかったかもしれれない。このとき、「国民の勤勉な労働が、争いを鎮め、国家の繁栄、即ち黄金時代の再来をもたらす原動力となる」とするヘシオドス的なメッセージが、この作品に織り込まれていると解することも可能となる。だが、この詩は単に国民の労働を奨励するプロパガンダに過ぎないのだろうか。
三 『農耕詩』における多様性のテーマ
ここで注目したいのは、この詩に見られる多様性のテーマである(15)。このテーマは第一巻の序歌に続いて現れる(1.50-63)。
だが、未知の原野を鉄を用いて鋤き返す前に、風と天の様々な法則、昔から伝わる耕作法、その土地の性質、また、それぞれの土地が何を生み出し、何を拒絶するかを学ばねばならぬ。こちらには穀物が、彼方には葡萄がより容易に育ち、他の所では牧草や若木が、ひとりでに青々と生い茂る。トゥモロスがサフランの香料を、インディアが象牙を、柔弱なサバ人が乳香を(ローマに)送ってくるのを見よ。また裸のカリュベス人が鉄を、ポントゥスが匂いの強いカストレウムを、エピロスがオリュンピアの勝馬を送ってくるのを見よ。自然がこれらの法と永遠の掟を、それぞれの土地に定めたのは、デウカリオンが無人の大地に石を投げ、それによって人間という、石のごとく頑強な種族が生まれてすぐのこと(16)。
ここでは、自然界に定められた多様な特性(1.51 uarium morem)が論じられているが、話題は世界の特産物に及び、農耕一般のテーマからの逸脱を示している(17) 。さらに、デウカリオンのエピソード(18)(62ff.)が言及されることによって、人類の誕生にまつわる神話上の伝説も紹介される。 一方、第二巻の初めでは、序歌に続く箇所で、arboribus uaria est natura creandis(2.9)といわれている。直訳するなら、「生育する樹木には様々な性質が存在する」という意味になろう。詩人は、具体的な樹木の名称とその性質を挙げた後、hos natura modos primum dedit, his genus omne/ silvanum fruticumque uiret nemorumque sacrorum (2.20-21)と述べる。即ち、「自然はこれらの法則を初めに定めた。それに基づいて、森や薮や聖なる森の全ての品種は青々と生い茂る。」という。このように第一巻と第二巻は、ともに序歌に続く箇所で(即ち、詩人の重要なメッセージが込められていると期待される箇所で)、自然界の多様な特性がメインテーマとして論じられていることがうかがえる(19)。
ところで、このテーマとの関連で注目したい表現としては、2.109 Nec uero terrae ferre omnes omnia possunt(「ところで、すべての土地がすべてのものを生むことはできない」)が挙げられる(20)。この表現は、先に見た1.53 quid quaeque ferat regio et quid quaeque recuset (「それぞれの土地が何を生み出し、何を拒絶するか」)との密接な対応関係を示すが、一方では先に見た『牧歌』第四歌の表現を想起させるものである。
omnis feret omnia tellus (39) すべての土地はすべてのものを生むだろう。
『農耕詩』の表現 Nec uero terrae ferre omnes omnia possunt. (「ところで、すべての土地がすべてのものを生むことはできない」)に見られる否定辞Necは、『牧歌』における黄金時代のビジョンを否定する言葉として、一見鉄の時代への言及を用意するかと思わせる。だが、実際には程なく「イタリア賛歌」(2.136-176)において、黄金時代にも似たローマの繁栄が称えられるのである(21)。この興味深い矛盾については、どのように理解すればよいのだろうか。
ここで、冒頭で触れたルクレティウスの影響について考えてみたい。今見た「すべての土地がすべてのものを生むことはできない」という『農耕詩』の表現は、一方においては「すべて(の樹木)がすべて(の実)を生むことができるだろう」(1.166 ferre omnes omnia possent)というルクレティウスの表現とも密接に関わっている(22)。ルクレティウスの表現は「何ものも無からは生じない」というエピクロス哲学の根本原理を反映したものであり(cf.1.155-156)、もしこの原理が正しくないとすれば、「あらゆる物があらゆる物から生まれ、種も不要となるであろう。人間は海から生じ、大地から魚や鳥が生まれ、家畜や動物は空から溢れ出す。木々は同じ果実を生むことがなくなり、すべて(の樹木)がすべて(の実)を生むようになる。(1.159-166)」といわれる。ここではエピクロスの原子論、とりわけ再生の原理を語る前提として、自然界の多様性が論じられていることがうかがえる。即ち、ルクレティウスは「何ものも無からは生じない」(1.205)と述べ、「いかなるものも無に帰することは絶対にあり得ない」(1.237)と語った後、「であるから、物は一見死滅するかのように見えても、実は完全には死滅することがない。自然が一つの物を作るのには、他の物から作りなおすのであって、いかなる物でも、他の死によって補われることのない限り、生まれ出ることは許されない。」(1.262-264)と述べるのである。
他方ウェルギリウスも、多様性のテーマと関連づけて、自発的に育つ植物の種類を列挙した後、「これらの多様な成長の方法は自然が定めたものであり、またこの原理に基づいてすべての植物は青々と生い茂る(23) 」(2.20-21)と語っている。この表現自体、ルクレティウスの5.1361以下をふまえたものであるが (24)、続く箇所では、人間が経験(2.22 usus)を通して発見した接ぎ木の方法を説明し、技術(2.52 artis)によって自然を思いのままに作りかえる可能性について述べている。この描写は「万物は定められた種から生じ、各々の種を維持する」(1.189-190)と主張するルクレティウスの考えと真っ向から対立するかに見える(25)。しかし、この「見せかけ」は意図的なものである。ウェルギリウスは、ルクレティウスのいう再生の原理そのものを否定しているのではなく、人間の技術が自然界により大きな多様性をもたらす可能性をむしろ強調するのである。
四 ルクレティウスとウェルギリウスによる固有性のモチーフの扱い
ところで、ルクレティウスは、第二巻の中で今見たテーマをさらに発展させ、同一種における多様性について論じていく(2.333ff.)。即ち、すべての存在が互いに形態上異なっている事実に触れ、アトムは互いに類似していないことを主張する。この原理の例証として、人間、魚、動物、鳥は、そのどれを取り上げても「それぞれが形態上異なっている」(2.348)という。さらに「子が母親を、母親が子を見分けることができるのはまさにこの原理によるのである。ちょうど、人間の場合、互いに知ったものに名前をつけることができるのは同じ原理に基づくように」(2.349-351)ともいう。
ここに示される「同一種における多様性」というモチーフは、『農耕詩』にも見出せるものである(2.83-88)(26)。
さらに、たくましいニレも、柳も、蓮の木も、イダ山の糸杉にとっても、各々にとって品種は同一ではない(genus haud unum)。また油の多いオリーヴも一つの姿で成長するのではない。例えばオルカスやラディウス、苦い実を持つパウシア、といった風に。またアルキノウス王の森の果樹も同様である。さらに、クルストゥメリアとシュリアの梨、また重い大梨にとって、新芽は同じ形ではない。
ラテン語のテキストにおいて、ルクレティウスのgenus humanum (2.342)とウェルギリウスのgenus haud unum (2.83)の対応関係は明瞭である(27) 。しかしながら、ウェルギリウスがこの表現に続けて列挙する植物の種類は、続くイタリアの葡萄の品種と同様、人間の技術が自然界にもたらしたバリエーションであり、先にふれた技術による自然変革のモチーフと関連している。他方、ルクレティウスの場合、「同一種における多様性」という自然の原理を説明する中で右の表現を用いているが、詩人はここでいったん主題から逸れ、母牛が宗教の犠牲となったわが子を血眼に探すエピソードを紹介する(2.352-366)(28) 。
例えば、しばしば神々の見事な神殿の前で、子牛が犠牲のために殺され、香を焚いた祭壇の傍らに倒れ、胸からは暖かい血の流れがほとばしり出ることがある。子を奪われた母牛は、緑の森を歩き回り、わが子の割れた蹄が地上に印した足跡を見出すと、亡くした子をどこかに見つけ出せないものかと、辺りをくまなく探し歩く。立ち止まっては木の葉で繁った森を嘆きの声で満たしたり、わが子に会いたい一念で、頻繁に小屋へ戻ったりもする。柔らかい柳の若枝も、露を帯びて青々とのびる牧草も、土手の緑を流れる川も、この母の心を喜ばせたり、突然生じた憂いを払うこともできない。豊かな牧場にいる他の子牛たちの姿が母の気を慰めたり、憂いから解き放つこともない。それほどまで、自分自身のもの、よく知ったものを探し求めるのである。
ここでは、母にとってわが子は一人しかいないという事実が強調され、他の子の姿は心をなぐさめず、「固有のもの(366 proprium)」「よく知ったもの(366 notumque)」を母は探し求めると表現される。つまりルクレティウスの場合、同一種における多様性というテーマは、「ひとつしかない物」の絶対的価値を読者に印象づけていることがわかる (29)。
一方ウェルギリウスの場合、このテーマはどのように扱われているのか。先にふれたイタリアの葡萄の品種の列挙は、各々の品種に対して人間の寄せる愛着や誇りを強調するとはいえ、厳密にいえば、母子の愛と同じ種類の感情を表すわけではない。ルクレティウスが、母子関係を描くに際して用いた固有性のモチーフは、『農耕詩』においてはむしろ「イタリア賛歌」において重要な意味を持つと考えられる。なるほど、ウェルギリウスは、この国の栄光を他国の優れた自然条件と「比較」する形で「イタリア賛歌」を始めており、「メディアの森や豊かな大地、美しいガンジス川や、黄金で濁るヘルムス川もイタリアの栄光には及ばない」と述べている。しかしながら、この賛歌を締めくくる箇所(2.173-174)では、「栄えあれ、作物と英雄の大いなる母(parens)、サトゥルヌスの偉大なる大地よ。」と歌っている。即ち、この賛歌の最終部分で用いられるparensという語は、ルクレティウスの用いたmater(2.349,350)の語と緊密に対応しながら、祖国ローマの絶対的価値を賛美していると考えられるのである。いい換えれば、詩人は単なる比較を越えた次元に見出しうる自らの祖国愛をここで表現していることがうかがえる。
このように、ウェルギリウスはルクレティウスが示した固有性のモチーフを導入し、ほかならぬローマを称える機会を得る。確かに、ローマの繁栄は人間の労働がもたらしたものといえるが(cf.2.155)、自然界の多様性もまた、この国の歴史を成立させる重要な条件の一つとみなしうる。実際、自然界の多様性という原理、即ち各々の土地の特性が全くないと仮定すれば、ローマという名称自体何の意味ももたないことになるであろう。いい換えるなら、「すべての土地がすべてのものを生み出す」時代(伝説上の黄金時代)においては、ローマの発展や繁栄というモチーフそのものが成立しないのである。
他方、ルクレティウスにとって固有性のモチーフは、元来エピクロスの再生の原理を説明する目的で言及されたものであるが、この原理を基にして死の恐怖を追放することができるとされる。即ち、「死は新たな生の始まり」であると考えることによって、究極の目標としてのアタラクシアは達成できるという(3.830ff.)。先に見た母子の愛をめぐる挿話が悲劇的な色合いを帯びるのは、これとは逆に「死は生の終わり」と考えることに起因する。一方、ウェルギリウスの「イタリア賛歌」においては、今ふれた「死は新たな生の始まり」とみなす死生観がその前提になっていると考えられる(即ちローマ国民の永続性も国家の繁栄の基礎に含まれる)。換言すれば、ルクレティウスが重視した再生の原理が、ローマの発展を基礎づける重要な要素として捉えられている点が注目される。この問題については、第二章で改めて検討を加える。
『農耕詩』において、ユピテルは人間に過酷な労働を課したと表現されるが(1.118ff.)(30)、この時代の特徴は「すべての土地がすべてを生むことはできない」という表現が適確に表している。これを「すべての土地がすべてのものを生むだろう」という『牧歌』の表現と比較するとき、労働の必然性がいっそう強調されることになるだろう。他方、「すべて(の樹木)がすべて(の実)を生むだろう」というルクレティウスの表現との関連からいえば、右に見てきたように、『農耕詩』におけるルクレティウス的テーマやモチーフ(死生観と関連した再生の原理(31)、多様性のテーマおよび固有性のモチーフなど)の受容と改変の跡が想起される。このとき、ユピテルは単に人間を労働に駆り立てる存在としてではなく、むしろローマが国家として永遠に優れた価値をもちつづけるための基本的な諸条件を保証する神として君臨する(32)。そしてルクレティウスが「迷信」を否定するために用いたまさにその原理を使って、ユピテルの時代の正当化を行っている点に、ある種のアイロニーが見出せよう。
五 補論
次に、右にあげた解釈について、別の角度から補足をしておく。再びルクレティウス第一巻における「すべて(の樹木)が全て(の実)を生むだろう」という表現に注意したい。ここではアドュナタの手法が用いられ、「種の保存」という自然の摂理の規則性が強調されていた。他方『農耕詩』第二巻の接ぎ木の説明においては、一見非現実的に思える組み合わせも、接ぎ木という技術によって可能になるという印象が与えられている。ここで注目される表現としては、mirabile dictu(Geo.2.30)が挙げられる。この表現は、伝統的に文明の発展によって新奇なものが誕生した際(例えば船など)、それに対して与えられる表現である。だが同時に、ルクレティウスにおいては一種独特な文脈で現れる。ルクレティウスは一見不可思議に見える自然現象についても科学的認識によれば、決して「驚くには値しない」ことがわかるという。例えば、第二巻でアトムの形状の多様性に触れ、すべてのアトムは互いに異なっていると述べた後、「それは驚くに値しない」(2.338 nec mirum)と述べている。ルクレティウスによれば、自然法則を理解せず、不可思議なことをそのまま放置する者に限って、それを神のなせるわざと見なし、迷信にとりつかれる(1.151-154)。それに対し、自然法則の完全な理解が、宇宙の神秘に対する恐れを減じ、心から恐怖を駆逐するであろう(2.1023ff.)。ルクレティウスの文脈において、「新しさ」(2.1024 nova, 1025 nova, 1040 novitate)と「驚き」(1028 mirabile, 1029 mirarier, 1037 miranda)はいずれもネガティブな要素をもつ語として把握されていることが明らかである。
一方ウェルギリウスは、このようなルクレティウスの主張について無知であったかどうか (33)。mirabileのモチーフは、ルクレティウスにおいては、科学の光の当らぬ自然の混沌とした状態と関連するが、ウェルギリウスにおいては、むしろ肯定的な意味を付与されていることに気づく。即ち、文明の発展の過程とは、一言でいい当てれば、それまで不可能であったことのひとつひとつが、新しい技術によって克服されていくまさに「驚きに満ちた」ものといえる (34)。ルクレティウスは、なるほど理性の働きを積極的に肯定するものの、それは技術の発展に結びつくものとしては評価されない。他方『農耕詩』において、ユピテルはなによりもまず、人間の知性を研ぎ澄ますべく、様々な困難を人間に与えたといわれている(1.121-133)(35)。
父なる神ご自身が、耕作の道は険しいことを望まれた。神こそが最初に、技術を用いて大地を耕作させ、人間の心を気苦労で研ぎ澄まし、おのが王国が、ものうい無気力にまどろまぬようはかられた。ユッピテル神以前には、農夫は畑を耕さなかった。田畑に標石を置き、境界線で区切ることさえ不敬であった。人々は共同の収穫を求め、大地は自ずと、今よりもっと気前よく、求められずともすべてを産んだ。だが、神は黒い蛇に悪しき毒液を与え、狼に略奪を命じ海を波立たせ、木の葉から蜜を振り落とし、火を遠ざけて、あちこちを流れる葡萄酒の小川を押し止めた。そのため人々は、経験と修練によって、次第に多様な技術を生み出した。
ここで示される「様々な技術」(1.133 uariae artes)という表現は、本稿で見てきた多様性のテーマと決して無縁ではない。同じ行の1.133 usus(「経験」)は、先に見た 2.22 ususとの関連を示唆しているし、この第二巻初めでは、人間の技術が自然界により大きな多様性を与えてきたことが述べられていたのである。ウェルギリウスは、この新しい技術の誕生に触れて、次のようにも表現している(1.145-46)。
tum uariae uenere artes. labor omnia uicit
improbus et duris urgens in rebus egestas.
このとき、様々な技術が生まれた。困難な状況の中で、欠乏が人間を駆り立て、厳しい労働がすべてに打ち勝ったのである。
表現上、1.145uariae… artesと1.133 uarias…artisの対応関係は明瞭であり、ともに人間の生み出した技術の多様性を強調する形になっている。
右に見てきたように、ユピテルの時代は伝統的な黄金時代とはおよそ異なる困難に満ちた時代であるが、同時にまた、技術の発見や発達のもたらす「驚き」と「新しさ」が、この時代を特徴付ける別の重要な要素として把握される(36)。
すでに触れたごとく、ルクレティウスにとり、多様性のテーマは自己の原子論の確からしさを裏付けるために導入されたテーマである。さらに、この原子論は神の介入を否定し、死の恐怖を追放するための手段でもある。またその結果もたらされる「心の平静」とは、あたかも「黄金の生」であるかのように表現されていた。だが、ウェルギリウスは同じテーマを扱い、ルクレティウスのいう多様性の原理や死生観を想起させながらも、人間の生に関しては、ルクレティウスと異なった主張を行っていることに気づく。『農耕詩』において、ユピテルは人間社会が「ものうい無気力にまどろまぬようはかられた」(1.124)といわれるのである。もし国民がこぞって心から「不安」を取り除くことに熱心になり、ルクレティウスのいう黄金の生を求めるならば、その結果として国家が「不活発になる」(1.124 torpere)とは考えられないだろうか。ウェルギリウスは、個人が自己の幸福のみを追及するとき、国家が沈滞ないしは崩壊する危険を警告しているように解される(37)。即ち、ユピテルは、ルクレティウスが否定的にとらえた「不安」そのものを人間に与えることによって人間社会の活性化を図る、いい換えれば文明の発展を促すのである。さらに「イタリア賛歌」において、人間の不断の労働がローマの発展を導いてきたといわれるとき、ウェルギリウスはルクレティウスには見られない「労働を通して国家の発展に寄与する」というストア的な考えをむしろ強調しているように思われる。だが、同時にこの詩人は、ルクレティウスのいう再生の原理や多様性の原理を導入することによって、従来の「永遠のローマ」という考え方により具体的な根拠を与えることに成功していることがうかがわれたわけである。
第二章 「アリスタエウス物語」の解釈 (38)
一 問題提起
冒頭で触れたように、全巻を締め括る位置に一見農耕の教えとは関係 のない物語が置かれている事実は、古来多くの研究者の関心を集めてきた。従来『農耕詩』の統一性を考える立場の研究は、アリスタエウスのエピソードがこの詩の文明観を反映し、一方のオルペウスのエピソードが、愛と死のテーマを象徴的に表すことを指摘する(39)。しかしこれらのエピソードの対置の意義をめぐる解釈については、例えば今あげた文明発展のテーマを重視する立場は、オルペウスの生き方が非生産的である点を強調し、逆にオルペウスの愛を評価する立場は、文明の持つ非情な側面をオルペウスの悲劇が訴えていると考える(40)。しかしそもそも「アリスタエウス物語」がこのような二つの対立を描いているか問題であろう。そこで本稿では視点を変えて、これらの問題を再び『農耕詩』におけるルクレティウスの影響に注目して検討してみたい。というのは、今触れたこの詩の文明観についても愛や死のテーマについても、ともにルクレティウスの影響が色濃く認められると考えられるからである(これらのテーマが前章で扱った多様性のテーマと関連する可能性については次章でふれる)。またこの解釈との関連で、第二巻エピローグのいわゆる「農耕賛歌」(2.458-542)に注意したい。ここでは農耕生活を賛美するテーマが展開する中で、ルクレティウスの自然観や幸福観が言及され、「事物の因果関係を理解し、全ての恐怖と、祈りを聞かない運命と、貪欲なアケロンの喧騒とを足下に踏み敷くことのできたものは幸いである」(2.490-492)といわれている(41)。ここで示される自然界の法則性を理解する立場は、『農耕詩』の文明観において重視されているし、一方死の恐怖の克服というモチーフは、その愛や死のテーマと関連すると考えられる。従ってまずこれらの影響関係を具体的に検討し、「アリスタエウス物語」の解釈を行う上での手掛かりを得たいと思う。
二 文明観、愛と死のテーマに見られるルクレティウスの影響
「アリスタエウス物語」の冒頭は、「ムーサよ、いかなる神が私たちのために、この技術を発明したのか」(4.315-316) という問いかけで始まる。一方、第一巻の118行以下では、人間の創意と工夫による様々な技術の発明が、ユピテルの意思に適うこととして正当化されている。しかし技術の発明というモチーフは、同時にルクレティウスとの関連を示す(42) 。ルクレティウスはその第五巻で文明発展の歴史を述べているが(5.925-1457)、この中で技術の開発とratioの関連に触れている(cf.5.1455 ratioque)。他方『農耕詩』でも「人間の経験が工夫を伴って様々な技術を生み出す」(1.133)という表現が見られる。事実、知性に基づく労働といったモチーフは、『農耕詩』においてしばしば強調され、先に触れた「自然界の法則性を理解する立場」との関連を示している(43)。しかしウェルギリウスの場合、この問題をさらにユピテルの意志と関連づける点で、独自の立場を取ることになる。ルクレティウスにとってratioは、本来神が地上の出来事に介入するという迷信を否定して、死の恐怖を初めとする人間の苦悩や恐怖を追放する目的で役立てられるべきものであった (44)。
ところで、今触れた神の助力というモチーフは、アリスタエウスのエピソードと第一巻の118行以下を結びつける別の重要な要素と考えられる。蜜蜂を失ったアリスタエウスが、その再生方法を発見するにあたっては、母キュレネやプロテウスの助力が必要であった。一方第一巻では、「聖なる森の椎の実や木苺がなくなって、ドドナが食料を与えなくなった時、ケレスが鉄で大地を耕すことを初めて人間に教えた」(1.147-149)といわれる。この神は第一巻の序歌においても、カオニアの椎の実を豊かな穀物の穂に変えた神として、つまり農耕技術の発展と深く関わる神として呼ばれている(1.7-8)。ウェルギリウスは人間の創意や工夫に基づく技術の発明といえども、どこかで神の助力を待たねばならないことを示唆していると考えられる。
次に『農耕詩』の愛と死のテーマ(45)と、これらをめぐるルクレティウスの影響を具体的に見ることにする。ルクレティウスは第四巻の1058行以下において、愛にとらわれることの無意味さを主張しているが、その中に「愛欲を避ける」というモチーフが見られる(4.1063-64)。一方『農耕詩』の記述においても、家畜を「愛欲から遠ざける」必要性が説かれている(3.209-211)。しかし、ルクレティウスが「心の平静」の実現というメインテーマと関連づけてこの必要性を説くのに対し、ウェルギリウスは家畜の世話という技術の応用の問題と結びつけてそれを説くのである。またウェルギリウスはルクレティウスとは異なり、愛欲を避けることが不可能な現実をむしろ強調している。特にヘロとレアンデルの悲劇に言及し(3.258-259)、動物も人間も「愛」の前では全く無力であることを強く印象づけている(3.242-244)。
地上に住む全ての生き物は、人間であれ、獣であれ、水中の生き物も、家畜の群も、色鮮やかな鳥たちも、皆こぞってこの狂気の炎の中へと飛び込んでいく。愛は全ての生き物にとって同じなのだ。
しかし、一方では愛を肯定的に描いている箇所がある(46)。即ち「春の賛歌」と呼ばれるディグレッションにおいて、春になるとユピテルが雨となって大地と交わり、全ての生物の愛を育むことが述べられている(2.325-329)。この記述が前章でみたルクレティウスの死生観、再生の原理を色濃く反映することは、従来よく指摘されるところである(47)。しかし『農耕詩』では、ルクレティウスの示した種の永続というモチーフは、むしろその文明観と結びついている(この点については前章で確認した)。例えば第三巻では淘汰の技術に関して次のようにいわれている(3.66-71)。
哀れな死すべき生き物にとって、各々の生涯の最良の日々はいち早く逃げ去る。病気と悲しい老年と苦しみが後に続き、厳しい死の非情さが(生を)奪い去る。ところでその体を交換したいと思うものが常にあるだろうが、後で失ったものを嘆くことのないように、もちろんいつも取り替えなければならない。そして毎年群れのために新しい品種をあらかじめ選ばなければならない。
ここに訳出した原文の六行のうち、初めの三行は掛け替えのない個の生をとらえた表現であるのに対し、後半の三行は種として永続する生に触れた表現である(48)。特に後半のsemperの反復とquotannisは、淘汰の仕事が四季の循環と一致したものであることを強く印象づけ、ルクレティウスの死生観の反映とその改変の跡をうかがわせる。このコントラストの意義については、「アリスタエウス物語」の解釈との関連で再び取り上げる。
一方、死のテーマをめぐるルクレティウスの影響としては、従来『農耕詩』第三巻エピローグの「ノリクムの疫病」(3.470-566)とルクレティウス第六巻エピローグの「アテナイの疫病」(6.1090-1286)の関連が指摘される(49)。両者はともに死の恐怖を描いているのだが、ここで注意しておきたいことは、ウェルギリウスがルクレティウスに倣って疫病の流行を前にした祈りの無力を示すばかりか、勤勉や徳行、技術の無力を示している点である(50)。確かにルクレティウスの場合、迷信を批判することは、その主題と無理なく結びつく(51)。即ち死の恐怖はエピクロス哲学によって追放できるものであった。一方ウェルギリウスの場合、敬神や勤勉といった『農耕詩』において重視される要素をここで強調するのでも批判するのでもない。むしろ愛と同様、死の恐怖によっても「心の平静」が容易には実現し難い現実を示唆していると考えられる。以上見てきたように、ウェルギリウスは愛や死のテーマをめぐるルクレティウスの記述を意図的に想起させることによって、ルクレティウスと共通する考え方とともに、それとは異なる『農耕詩』独自の立場を読者に伝える工夫を払っていることがうかがわれたわけである。
三 「アリスタエウス物語」に見られるルクレティウスの影響
次に、以上の分析と問題提起を踏まえて「アリスタエウス物語」の解釈を行いたい。初めにも触れたように、オルペウスのエピソードにはfurorによる破滅というモチーフが認められる点で、今見た愛と死のテーマとの関連が指摘できる。一方アリスタエウスもfurorにとらわれた結果、エウリュディケの死を招いたと考えられる。またオルペウスは妻の救出に失敗した後は全ての愛を拒み、キコネス族の女性の怒りをかって殺される(4.516-522)。つまり、ここには本来生の誕生を導くはずのamorにとらわれても、それを拒否しても死がもたらされることが示され、二つのエピソードがともに愛と死のテーマをめぐって関連づけられていることがうかがえる。
一方、アリスタエウスが見出した蜜蜂を再生する技術について見ると、これは種の永続という自然の営みを利用する点で、先に見た第三巻の淘汰の例と同様である。そこでは再生可能な生と再生不可能な生の対比が見られたわけだが、「アリスタエウス物語」においても、蜜蜂の再生に成功したアリスタエウスのエピソードは、再生可能な生というモチーフと関連し、他方妻の死と自らの死を招くオルペウスのエピソードは、再生不可能な生というモチーフと結びつくと考えられる(52)。またエウリュディケは、オルペウスに永遠の別れを告げて「再び残酷な運命が私を呼び戻します」(4.495-496)と述べるが、この言葉は、そこで見た「厳しい死の非情さが(生を)奪い去る」(3.68)という表現を想起させる。さらに初めに触れた「農耕賛歌」におけるルクレティウスへの言及において「祈りを聞き入れない運命」(2.491)という表現が見られたが、これも今見た二つの表現との対応を示す。つまりエウリュディケの言葉は、表現上ルクレティウスによる死の恐怖追放のモチーフを示唆していると考えられる。しかしちょうど第三巻で、愛や死の恐怖にとらわれる人間のいかんともしがたい現実が描かれていたように、オルペウスは妻の死をどこまでも悲しみ、ついに自らの死を招く者として描かれる。これはまさに、ルクレティウス が批判する生き方の典型である。このようにウェルギリウスは、愛や死のもたらす苦悩や恐怖を決して心から取り除けるものと見ていないことがうかがえる。
この点アリスタエウスも、蜜蜂を失って悲しみ母に不満をぶつける者として描かれるが、この悲しみは母の言葉を借りれば「心から取り除けるもの」(4. 531)であった。母は蜜蜂の病気の原因を息子に知らしめ、ニンフたちの許しを得る方法を語る。それを忠実に実践したアリスタエウスは、蜜蜂の再生に成功する。つまりこのエピソードには、ルクレティウス的な「事物の原因を理解し、心から悲しみや恐怖を取り除く」という考えがうかがえる。しかし厳密に見れば、アリスタエウスの不満は、誉れへの執着から生じる(4.325-328)。ルクレティウスであれば、名誉心の空しさを説くことによって、「心の平静」の実現を促すであろう(53)。このエピソードについていえば、ウェルギリウスは悲しみや不満をきっかけとして、一つの技術が誕生する可能性を示唆しているように思われる。第一巻ではcura(不安)によって人間の心を研ぎ澄まし、様々な技術の開発を期待するユピテルの意図が示されていた。つまりcuraは否定すべきものでは決してなく、人間の創造的精神を磨くものしてむしろ正当化されていた。他方ルクレティウスにとっては、curaのない心こそその理想であったわけで、人間による技術の発明に関する記述を見ても、むしろその背後に横たわる人間の欲望を批判する立場が見え隠れする(54)。以上見てきたように、「アリスタエウス物語」はルクレティウスの示した技術の発展のモチーフやその死生観を反映していること、愛や死のテーマと関連づけて「心の平静」の実現というルクレティウス的な考えを想起させながら、同時にその実現が不可能な現実を強調していること、などがうかがえたわけである。
四 「アリスタエウス物語」の解釈
では詩人によるこのような改変にはどのような意義があるのだろうか。この問題に対しては、同じ第四巻の「蜜蜂社会の特性」(4.149-227) の記述との比較が手掛かりを与えるように思われる (55)。ここでは蜜蜂が王を中心とした国家の秩序の中で、一見人間社会の手本のごとき生活を営む様子が描かれている。例えば、蜜蜂は勤勉であり、互いに協調して仕事を進めることがいわれているし、その精神は愛にとらわれることなく、ひたすら労働に向けられることも示されている(4.177-178;198-199;205)。また人間とは異なり、死の恐怖が存在しないことや、種として永続することなどもいわれている(4.208-209)。つまりここにはlaborによる国家への献身や、愛や死の恐怖と無縁の生、種としての永続といった『農耕詩』の重要なモチーフが集められている。特に、二番目に挙げた愛や死と無縁の生、というモチーフはルクレティウスの理想と一致している。しかし王が死ねばその結束は崩れ、互いに蜜を奪い合い、巣を破壊するといわれる点で、蜜蜂の社会は否定的にも描かれている(4.213-214)。確かに蜜蜂は人間的なcuraとは無縁であるが、本能によって生きる点で人間の手本とはなりえない。このような蜜蜂の本性は、ユピテルによって授けられたものといわれている(4.149-150)。とすれば、ユピテルは蜜蜂には与えなかったcuraを人間に授けたことになる。
確かにcuraから価値をつくり出すことこそ、人間のなし得る仕事であろう。不完全な技術をより完全に近づける工夫も、その際求められる創造的知性も、等しく人間を特徴づける要素である。アリスタエウスのエピソードは、このように絶えず失敗から成功を生み続けてきた人間の営みを象徴しているように思われる。一方のオルペウスのエピソードについてもこの悲劇が我々の心を動かすとすれば、それは単に彼がfurorによって滅びるからではない。furorにとらわれる点では、人間も動物も変わらないことがいわれていたのである。われわれがこの物語に寄せる共感は、彼が生きるものの弱点として与えられた諸条件―furorにとらわれやすく、死によって敗北する定め―に対して、どこまでも誠実に立ち向かった「人間らしさ」に寄せられるのではないか。逆にもしオルペウスが妻への執着心を放棄していたら、このエピソードの持つ緊張感が損なわれることはいうまでもない。ウェルギリウスはルクレティウスとは違ってcuraを否定し切るのではなく、むしろ人間社会から欲望や苦悩を取り除くことは不可能であること、しかしそれによって精神が絶えず研ぎ澄まされ、積極的に生きる可能性も開けることを示唆しているように思われる。それはまた、黄金時代を終結したユピテルの時代の正当化の試みでもあっただろう。以上見てきた様々な形でのルクレティウス的モチーフの導入と改変も、まさにこの目的のもとで理解できるように思われる。
五 「アリスタエウス物語」に見られる構成上の問題
最後になぜ「アリスタエウス物語」が第四巻の後半部に位置しているのか、という構成上の問題について触れておく。この問題を考える上で、再び第二巻の「農耕賛歌」に注目したい。ここには、従来『農耕詩』の中心思想であるとされるヘシオドス的な労働と正義のモチーフ(2.460; 467; 472-474;513-514;516)が色濃く出てくるだけでなく、ルクレティウス的な「心の平静」(467 secura quies;468 otia)を楽しむ農夫の姿も描かれる。さらにこの農夫の生活がローマ的pietasと結びつけられ(473;514-515)、ローマの発展を支えてきたといわれる時(532-535)、ここにおいて、ヘシオドスとルクレティウスの主要モチーフを取り入れた『農耕詩』の文明観の集約を認めることができるだろう (56) 。他方第四巻のエピローグについてもすでに見たように、アリスタエウスのエピソードはこのような『農耕詩』の文明観を改めて想起させ、一方オルペウスのエピソードは後半の愛と死のテーマと深く関連している。つまり、第二巻と第四巻のエピローグは、ともに先行する主要なテーマを集約する箇所であると考えられる。しかし、ここで次の三つの問題が生じる。
(1)「農耕賛歌」の中心部では、先に触れた自然観や幸福観をめぐる対置に加えて、「自分は本当は自然哲学の詩を書きたいのだが、それが無理なら、無名のまま川と森を愛したい」(2.483-486)という意味のことを述べている。このような自己の立場の表明は、今確かめた農耕生活を賛美するテーマの中では、やはり唐突な印象を与えるといわざるをえない。ではこの表明自体にはどのような意義があるのか(57)。
(2)「農耕賛歌」に続く第三巻の序歌では、アウグストゥスを主人公とする叙事詩を書く約束が行われている中で (58) 、「私も地上から引き上げられ、勝利者として人々の口の端に上る道が試みられねばならない」(3.8-9)といわれている。このようにアウグストゥスの神格化になぞらえて、詩人としての自負心を表明する立場は、今見た「無名のまま、川と森を愛したい」と述べる詩人の立場と明らかに異なっている。ではこのコントラストはどのように解すべきであろうか (59) 。
(3)「アリスタエウス物語」全体にはホメロスの言葉の反映が認められ、それまでの農耕のテーマとは異なる叙事詩的な色合いが出てくる点が注目される(60) 。またオルペウスのエピソードは、表現上の対応などを根拠として従来『牧歌』の六歌や十歌を想起させることがいわれる(61)。ではこれらの事実は何を物語るのか。
これらの問題を考える上で、第四巻のいわゆるスプラギスと呼ばれる箇所に注目したい(62)。ウェルギリウスはこの全巻を締め括る箇所において、およそ次のように述べている(4.559-566)。
私は畑の耕作、家畜の飼育、また樹木について歌った。一方偉大なるカエサル(アウグストゥス)は、底深きエウフラテス川の傍らで、戦の雷を放ち、勝利者として服従する人民に法を与え、天への道を目指して進んだ。その間、うるわしきパルテノペは誉れなき閑暇の仕事において活躍した私ウェルギリウスを養ってくれた。その私とは、かつては牧人の歌を戯れに歌った者である。若き日に大胆にもティテュルスよ、枝を広げたぶなの木の下でおまえを歌った者。
ここで詩人は過去に『牧歌』を歌ったこと、そして今『農耕詩』を歌い終えたことを告げているだけでなく、他方アウグストゥスが過去に戦いの勝利をおさめ、今平和をもたらし、未来に神となることを示している。つまりアウグストゥスの業績と対置する形で、詩人の道程が語られていることがわかる。このような「詩人とアウグストゥスの対置」というモチーフが第三巻の序歌に見られることについては今見たところである。一方、ここで再び「農耕賛歌」の対置に注目すれば、先に触れた「無名のまま川と森を愛したい」という詩人の立場は、表現の対応から『牧歌』の詩人の立場を表すことが注目される。2.485-486 では川、谷、森といった『牧歌』のキーワードが認められ、493-494ではパンやシルウァヌス、ニンフの姉妹といった田園の神々が言及されている (63) 。つまり、「農耕賛歌」の中心部分では、『牧歌』の詩人としての立場がルクレティウスの立場と対置されるのである。またすでに見たように、「農耕賛歌」はこの対置を包みながら、『農耕詩』の詩人としての理想を語っている。とすれば「農耕賛歌」と第三巻の序歌は一体として、過去に『牧歌』を歌い、今『農耕詩』を歌い、そして未来には叙事詩を歌う詩人としての道程を示唆していることになる。
次に、「アリスタエウス物語」について考える。すでに見たように、この物語の構成は、オルペウスの悲劇を、アリスタエウスによる技術発見のエピソードが包み込む形を取っている。ここで、従来いわれるように、愛と死のテーマをめぐるオルペウスのエピソードと『牧歌』(特に六歌と十歌)との関連を重視し、一方アリスタエウスのエピソードと『農耕詩』における文明観との関連を重視するならば、この物語は構成上「農耕賛歌」と対応しながら、過去に『牧歌』を歌い、今『農耕詩』を歌う詩人の足取りを暗示することになるだろう。このように「アリスタエウス物語」の全体が、ウェルギリウスの詩作の道程を反映する、即ち、さながらスプラギスにも似た意味合いを持つものと見るとき、この物語が一見唐突に、叙事詩的色合いを帯びている理由も、容易に理解できるのではないだろうか。ウェルギリウスはちょうど詩の「真ん中」で、つまり第二巻のエピローグにおいて、前半のテーマをまとめつつ、さらに、過去から未来にかけての自己の詩の在り方を示唆していた様に、「アリスタエウス物語」というこの詩の「終り」の部分においても、一方では詩全体のテーマをまとめながら、他方では過去に『牧歌』を、今『農耕詩』を、そして未来にはやがて叙事詩を歌う詩人としての道程を暗示しているように解される。このように見る時、「アリスタエウス物語」は今挙げたまさに二つの機能を併せ持つ箇所として、詩全体を締め括るに相応しい物語であると考えられる。
終章 『農耕詩』における独創性の問題
第一章で見たように、『農耕詩』における多様性のテーマは、黄金時代とはもはや呼べない現実を新しい視点で把握し直すことを可能にする。ルクレティウスの示した再生の原理、固有性の原理を読者に想起させながら、詩人は現実を特徴づける新しい要素として、個の絶対的価値に着目する。換言すれば、「すべての土地がすべてを生み出す」黄金時代において、個の傑出、絶対的価値といった要素は見出すことが出来ないだろう。さらに、あらゆる物の充足した黄金時代とは対照的に、「欠乏」や「困難」の語(cf.1.146 egestas; 146 duris…rebus)が特徴づける現実においてこそ、人間の創造的知性(cf.1.123 mortalia corda; 133 meditando )の活躍する場も開かれていると見ることもできる。
この解釈は、第二章で考察した「アリスタエウス物語」の結論と別のものではない。アリスタエウスは、自分が飼育していた蜜蜂を失って悲しむが、最終的には蜜蜂の再生に成功する。このとき、ルクレティウスのいう「再生しうる生」というモチーフが想起されるが、他方、オルペウスとエウリュディケのエピソードでは、「再生しえない生」、いい換えるなら掛け替えのない個の価値が描かれていたのである。オルペウスはエウリュディケを冥界から連れ戻すことに失敗し、悲しみに暮れて諸国を放浪するが、オルペウスの悲しみは、他の女性ではいやすことが出来ない性質のものであった(cf. 4.516 nulla Venus, non ulli animum flexere hymenaei)。このとき、同じ観点から、子を失った母牛の悲しみを描写したルクレティウスの表現を思い出すことが出来るだろう。このように、オルペウスのエピソードが、黄金時代とは異なる時代を生きる人間の条件を示唆していることは明らかであるが、同様にアリスタエウスのエピソードも、「技術の発見による現実変革」という黄金時代には見られぬ人間固有の営み(cf.4.316 hominum experientia)を暗示している。即ち、「すべての土地がすべてのものを生み出すのではない」現実があってこそ、アリスタエウスのように新しい技術を発見する行為に意義があると考えられる。第一章で検討した「多様性の原理」は、個の絶対的価値の前提をなすと同時に、現実における「欠乏」の概念と密接に関わりながら、新たな技術の発見とそれに伴う現実変革という人間独自の営みと関連づけられるのである。
ところで、第二章では、「農耕賛歌」(第二巻エピローグ)と「アリスタエウス物語」(第四巻エピローグ)について、ともに詩人のスプラギスと解する可能性について考察した。では、詩人はなぜこのような形で、自己の詩作の道程を読者に伝える必要があったのか。
ここで注目されることは、ウェルギリウスがこの作品の中で自己の詩の独創性を三度にわたって言明している点である(2.173-176、3.40-42、3.289-294)。例えば第二巻では、ヘシオドスの作品に言及しながら(176 Ascraeum…carmen)、自らローマのヘシオドスたらんとする決意を明らかにしている(とくに、175 aususに注意されたい)。他方、これら三箇所における独創性の表明は、いずれも未踏の領域に挑戦するルクレティウスの表現(1.926f.)を想起させるものである。即ち、ウェルギリウスは、『農耕詩』がヘシオドスとルクレティウスに代表される教訓詩の伝統を独自に発展させたものであることを繰り返し示している。それでは、詩人はなぜ自己の詩の独創性の表明にこれほどまでこだわったのか。
われわれはすでに、この作品の重要なテーマとして多様性の問題を考察した。このとき、個の絶対的価値というモチーフが、注目すべき要素として浮かび上がってきた。すでに見たように、この価値は、自然によって当初からすべての存在に与えられたものであると同時に、人間の主体的努力によって、絶えず磨き上げることが可能なものとして示されていた。別稿において明らかにしたように(64) 、詩人がこの詩の中で皇帝アウグストゥスに言及した(第三巻序歌など)のは、ひとつにはローマ国民の「鑑」となるべきアウグストゥスの業績を紹介する狙いがあったためと思われる。アウグストゥスの業績も、自らの詩人としての業績も、ともにローマの歴史上かけがえのない独創的意義を誇るものであろう。しかしながら、詩人がこの詩で示唆した多様性の原理に照らすなら、独創性の発揮は、必ずしも限定された個においてのみ見出されるのではない。人間として生きる限り、誰もが独創的に生きる条件を本来授けられていると考えられる。ウェルギリウスが自己の詩作の道程を振り返る形で、ローマ国民に人間としての「鑑」を示すとすれば、それは各人がかけがえのない己の個性に着目し、それを最大限に磨き上げるよう呼びかける狙いを持つためであると考えられる。
むすび
従来『農耕詩』に見られる労働の教えがこの作品の主要テーマであるかのように解釈される。この点に関し、ヘシオドスの影響が少なからず認められることは事実である。だが、人間は単に労働と成功だけを求めて生きているのではない。我々は実に多様性の中に生きている。いい換えれば、同じ時、同じ場所は二つとして存在せず、純粋な意味で同じ物は一つしかない。この認識は、ルクレティウスとウェルギリウスに共通するものであった。だがその解釈において両者は本質的に異なる。ウェルギリウスによれば、失ったものへの哀惜、未知への憧れや不安もすべてこの原理がその前提となる。探求心や冒険心といった人間だけがもつ精神の働きも、現実の多様性なしにはまったく働く場所を持たないことになる。どこへ行っても同じ物しかなく、また、今日は昨日と同じ事が起こり、明日に何が起こるかもあらかじめ予測が可能であるならば、そのような時代をはたして生きるに値すると呼び得るだろうか。
個人のレベルにおいても同じことがいえる。他人と交換可能な己であるならば、苦労して生きる意味はない。第四巻の「蜜蜂社会」の記述において、勤勉な蜜蜂の生態が驚嘆すべきものとして描かれているが、無論蜜蜂社会は我々人間の手本たりえない。皮肉なことに、蜜蜂にはルクレティウスの理想化した「curaのない生活」がある。だが、悲しみがないということは、喜びもないということである。我々は必ずしも蜜蜂のように没個性的に生きるべきではない。
他方、ウェルギリウスは「イタリア賛歌」において、ローマの歴史を称えたが、それが単にこの国の歴史的優越を誇るものでないことは自明である。「イタリア賛歌」はより普遍的な意味で、人間の歴史への賛歌である。すでに見たように、詩人はユピテルとともに伝統的な黄金時代を否定した。それは無論労働の必要性を説く前提となるが、詩人としてはむしろ、我々が人間として真に生きるに値する時代を迎えていることを暗に告げているとも解されるのである。