ウェルギリウス(以下Verg.)の『農耕詩』(以下Geo.)第4巻後半のいわゆる「アリスタエウス物語」(4.315-558)ではおよそ次のような物語が語られている (1).牧人アリスタエウスは飼っていた蜜蜂を失い、母キュレネに不平を浴びせたところ、「全てを知る老人」プロテウスをとらえその原因を尋ねるように忠告される.プロテウスによれば、アリスタエウスに追われ毒蛇に命を落とした妻エウリュディケを悲しんで、オルペウスが呪いをかけたという.この予言者はさらに、オルペウスが冥界の王の許しを得て死んだ妻を地上に連れ戻すことを試みたが、「後ろを振り返ってはならない」という王との約束を守れずにその試みが失敗に終わったこと、またその結果、愛をかたくなに拒み流浪の旅を続けるオルペウスが、キコネス族の女性の怒りをかって殺されたこと、などのいきさつを語る.真相を知ったアリスタエウスは母の命ずる通りの仕方で森のニンフへ祈りを捧げたところ、果たして蜜蜂の再生に成功した.
全巻を締め括る位置に、このように一見農耕の教えとは関係のない物語が置かれている事実は、古来多くの研究者の関心を集めてきた.従来Geo.の統一性を考える立場の研究は、アリスタエウスのエピソ-ドがこの詩の文明観を反映し、一方のオルペウスのエピソ-ドがGeo.の愛と死のテーマを象徴的に表すことを指摘する (2).しかしこれらのエピソ-ドの対置の意義をめぐる解釈については、例えば今あげた文明発展のテ-マを重視する立場は、オルペウスの生き方が非生産的である点を強調し、逆にオルペウスの愛を評価する立場は、文明の持つ非情な側面をオルペウスの悲劇が訴えていると考える (3).しかしそもそも「アリスタエウス物語」がこのような2つの対立を描いているか問題であろう.そこで本稿では視点を変えて、これらの問題をGeo.におけるルクレティウス(以下Lucr.)の影響に注目して検討してみたい.というのは、今触れたこの詩の文明観についても愛や死のテ-マについても、ともにLucr.の影響が色濃く認められると考えられるからである.またこの解釈との関連で、第2巻エピロ-グのいわゆる「農耕賛歌」(2.458-542)に注目したい.ここでは農耕生活を賛美するテーマが展開する中で、Lucr.の自然観や幸福観が言及され、「事物の因果関係を理解し、全ての恐怖と、祈りを聞かない運命と、貪欲なアケロンの喧騒とを足下に踏み敷くことのできたものは幸いである」(2.490-492)といわれている (4).ここで示される自然界の法則性を理解する立場は、Geo.の文明観において重視されているし、一方死の恐怖の克服というモチ-フは、その愛や死のテ-マと関連すると考えられる.従ってまずこれらの影響関係を具体的に検討し、「アリスタエウス物語」の解釈を行う上での手掛かりを得たいと思う.
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「アリスタエウス物語」の冒頭は、「ム-サよ,いかなる神が私たちのために、この技術を発明したのか」(4.315-316) という問いかけで始まる.一方、第1巻の118行以下では、人間の創意と工夫による様々な技術の発明が、ユピテルの意思に適うこととして正当化されている.しかし技術の発明というモチ-フは、同時にLucr.との関連を示す (5).Lucr.はその第5巻で文明発展の歴史を述べているが、この中で技術の開発とratioの関連に触れている.他方Geo.でも「人間の経験が工夫を伴って様々な技術を生み出す」(1.133)という表現が見られる.事実、知性に基づく労働といったモチ-フは、Geo.においてしばしば強調され、先に触れた「自然界の法則性を理解する立場」との関連を示している (6).しかしVerg.の場合、この問題をさらにユピテルの意志と関連づける点で、独自の立場を取ることになる.Lucr.にとってratioは、本来神が地上の出来事に介入するという迷信を否定して、死の恐怖を初めとする人間の苦悩や恐怖を追放する目的で役立てられるべきものであった (7).ところで、今触れた神の助力というモチ-フは、アリスタエウスのエピソ-ドと第1巻の118行以下を結びつける別の重要な要素と考えられる.蜜蜂を失ったアリスタエウスが、その再生方法を発見するにあたっては、母キュレネやプロテウスの助力が必要であった.一方第1巻では、「聖なる森の椎の実や木苺がなくなって、ドドナが食料を与えなくなった時、ケレスが鉄で大地を耕すことを初めて人間に教えた」(1.147-149)といわれる.この神は第1巻の序歌においても、カオニアの椎の実を豊かな穀物の穂に変えた神として、つまり農耕技術の発展と深く関わる神として呼ばれている(1.7-8).Verg.は人間の創意や工夫に基づく技術の発明といえども、どこかで神の助力を待たねばならないことを示唆していると考えられる.以上簡単に見たように、第1巻118行以下とアリスタエウスのエピソ-ドは、Lucr.的な技術の発見のモチ-フによって結びつけられていること、しかしそれはこの詩人には見られない神の助力というモチ-フを伴っている点でGeo.独自の立場を表していること、などがうかがわれたわけである.
次にGeo.の愛と死のテ-マ (8)と、これらをめぐるLucr.の影響を具体的に見ることにする.Lucr.は第4巻の1058行以下において、愛にとらわれることの無意味さを主張しているが、その中に「愛欲を避ける」というモチ-フが見られる(4.1063-64).一方Geo.の記述においても、家畜を「愛欲から遠ざける」必要性が説かれている(3.209-211).しかしLucr.が「心の平静」の実現というそのメインテ-マと関連づけてこの必要性を説くのに対し、Verg.はより有効な家畜の世話という技術の応用の問題と結びつけてそれを説くのである.またVerg.はLucr.とは異なり、愛欲を避けることが不可能な現実をむしろ強調している.特にヘロとレアンデルの悲劇が言及され(3.258-259),動物も人間もamorの前では全く無力であることが印象づけられる(3.242-244).
しかしVerg.にせよLucr.にせよ、一方では、愛を肯定的に描いている箇所がある.例えばLucr.の場合、第1巻の序歌において全ての誕生を司るウェヌスに呼びかけている(1.1-5).また1.262-264では、ある物の死から別の誕生を生む自然(natura)の営みが原子論に基づいて説明されている.Lucr.はこの考えを根拠として、死の恐怖が無意味なことを説くわけである.他方Geo.においても、春になるとユピテルが雨となって大地と交わり、全ての生物の愛を育むことが述べられている(2.325-329).この記述が今触れたLucr.の死生観を色濃く反映することは、従来よく指摘されるところである (9).しかしGeo.では、このLucr.的な種の永続というモチ-フはむしろその文明観と結びつく.例えば第3巻では淘汰の技術に関して次のようにいわれている.(3.66-71)
optima quaeque dies miseris mortalibus aeui
prima fugit: subeunt morbi tristisque senectus
et labor, et durae rapit inclementia mortis.
semper erunt quarum mutari corpora malis:
semper enim refice ac, ne post amissa requiras,
ante ueni et subolem armento sortire quotannis.
哀れな死すべき生き物にとって、各々の生涯の最良の日々はいち早く逃げ去る.病気と悲しい老年と苦しみが後に続き、厳しい死の非情さが(生を)奪い去る.ところでその体を交換したいと思うものが常にあるだろうが、後で失ったものを嘆くことのないように、もちろんいつも取り替えなければな らない.そして毎年群れのために新しい品種をあらかじめ選ばなければならない
ここに訳出した原文の6行のうち、初めの3行は掛け替えのない個の生をとらえた表現であるのに対し、後半の3行が種として永続する生に触れた表現である点が注目される(10).特に後半のsemperの反復とquotannisは、淘汰の仕事が四季の循環と一致したものであることを印象づけ、Lucr.の死生観の反映とその改変の跡をうかがわせる.このコントラストの意義については、「アリスタエウス物語」の解釈との関連で再び取り上げる.
ところで死のテーマをめぐるLucr.の影響として、従来Geo.第3巻エピロ-グの「ノリクムの疫病」(3.470-566)とLucr.第6巻エピローグの「アテナイの疫病」(6.1090-1286)の関連が指摘される(11).両者はともに死の恐怖を描いているのだが、ここで注意しておきたいことは、Verg.がLucr.に倣って疫病の流行を前にした祈りの無力を示すばかりか、勤勉や徳行、技術の無力を示している点である(12).確かにLucr.の場合religioを批判することは、その主題と無理なく結びつく(13).すなわち死の恐怖はエピクロス哲学によって解決できるものであった.一方Verg.の場合、敬神や勤勉といったGeo.において重視される要素をここで強調するのでも批判するのでもない.むしろ愛と同様、死の恐怖によっても「心の平静」が容易には実現し難い現実を示唆していると考えられる.以上見てきたように、Verg.は愛や死のテーマをめぐるLucr.の記述を意図的に想起させることによって、Lucr.と共通する考え方とともに、それとは大きく異なるGeo.独自の立場を読者に伝える工夫を払っていることがうかがわれたわけである.
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次に、以上の分析と問題提起を踏まえて「アリスタエウス物語」の解釈を行いたい.初めにも触れたように、オルペウスのエピソ-ドにはfurorによる破滅というモチ-フが認められる点で、今見た愛と死のテーマとの関連が指摘できる.一方アリスタエウスもfurorにとらわれた結果、エウリュディケの死を招いたと考えられる.またオルペウスは妻の救出に失敗した後は全ての愛を拒み、キコネス族の女性の怒りをかって殺される(4.516-522).つまり、ここには本来生の誕生を導くはずのamorにとらわれても、それを拒否しても死がもたらされることが示され、2つのエピソ-ドがともに愛と死のテ-マをめぐって関連づけられていることがうかがえる.
次にアリスタエウスが見出した蜜蜂を再生する技術について見ると、これは種の永続という自然の営みを利用する点で、先に見た第3巻の淘汰の例と同様である.そこでは再生可能な生と再生不可能な生の対比が見られたわけだが、「アリスタエウス物語」においても、蜜蜂の再生に成功したアリスタエウスのエピソ-ドは、再生可能な生というモチ-フと関連し、他方妻の死と自らの死を招くオルペウスのエピソ-ドは、再生不可能な生というモチ-フと結びつくと考えられる(14).またエウリュディケは、オルペウスに永遠の別れを告げて「再び残酷な運命が私を呼び戻します」(4.495-496)と述べるが、この言葉は、そこで見た「厳しい死の非情さが(生を)奪い去る」(3.68)という表現を想起させる.さらに初めに触れた「農耕賛歌」におけるLucr.への言及において「祈りを聞き入れない運命」(2.491)という表現が見られたが、これも今見た2つの表現との対応を示す.つまりエウリュディケの言葉は、表現上Lucr.による死の恐怖追放のモチ-フを示唆していると考えられる.しかしちょうど第3巻で、愛や死の恐怖にとらわれる人間のいかんともしがたい現実が描かれていたように、オルペウスは妻の死をどこまでも悲しみ、ついに自らの死を招く者として描かれる.これはまさに、Lucr. が批判する生き方の典型である.このようにVerg.は、愛や死のもたらす苦悩や恐怖を決して心から取り除けるものと見ていないことがうかがえる.
この点アリスタエウスも、蜜蜂を失って悲しみ母に不満をぶつける者として描かれるが、この悲しみは母の言葉を借りれば「心から取り除けるもの」(4. 531)であった.母は蜜蜂の病気の原因を息子に知らしめ、ニンフたちの許しを得る方法を語る.それを忠実に実践したアリスタエウスは、蜜蜂の再生に成功する.つまりこのエピソ-ドには、Lucr.的な「事物の原因を理解し、心から悲しみや恐怖を取り除く」という考えがうかがえる.しかし厳密に見れば、アリスタエウスの不満は、誉れへの執着から生じる(4.325-328).Lucr.であれば、名誉心の空しさを説くことによって、「心の平静」の実現を促すであろう(15).このエピソ-ドについていえば、Verg.は悲しみや不満をきっかけとして、1つの技術が誕生する可能性を示唆しているように思われる.第1巻ではcura(不安)によって人間の心を研ぎ澄まし、様々な技術の開発を期待するユピテルの意図が示されていた.つまりcuraは否定すべきものでは決してなく、人間の創造的精神を磨くものしてむしろ正当化されていた.他方Lucr.にとっては、curaのない心こそその理想であったわけで、人間による技術の発明に関する記述を見ても、むしろその背後に横たわる人間の欲望を批判する立場が見え隠れする(16).以上見てきたように、「アリスタエウス物語」はLucr.的な技術の発展のモチ-フやその死生観を反映していること、愛や死のテ-マと関連づけて「心の平静」の実現というLucr.的な考えを想起させながら、同時にその実現が不可能な現実を強調していること、などがうかがえたわけである.
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では詩人によるこのような改変にはどのような意義があるのだろうか.この問題に対しては、同じ第4巻の「蜜蜂社会の特性」(4.149-227) の記述との比較が手掛かりを与えるように思われる(17).ここでは蜜蜂が王を中心とした国家の秩序の中で、一見人間社会の手本のごとき生活を営む様子が描かれている.例えば、蜜蜂は勤勉であり、互いに協調して仕事を進めることがいわれているし、その精神は愛にとらわれることなく、ひたすら労働に向けられることも示されている(4.177-178;198-199;205).また人間とは異なり、死の恐怖が存在しないことや、種として永続することなどもいわれている(4.208-209).つまりここにはlaborによる国家への献身や、愛や死の恐怖と無縁の生、種としての永続といったGeo.の重要なモチ-フが集められている.特に、2番目に挙げた愛や死と無縁の生、というモチ-フはLucr.の理想と一致している.しかし王が死ねばその結束は崩れ、互いに蜜を奪い合い、巣を破壊するといわれる点で、蜜蜂の社会は否定的にも描かれている(4.213-214).確かに蜜蜂は人間的なcuraとは無縁であるが、本能によって生きる点で人間の手本とはなりえない.このような蜜蜂の本性は、ユピテルによって授けられたものといわれている(4.149-150).とすれば、ユピテルは蜜蜂には与えなかったcuraを人間に授けたことになる.
確かにcuraから価値をつくり出すことこそ、人間のなし得る仕事であろう.不完全な技術をより完全に近づける工夫も、その際求められる創造的知性も、等しく人間を特徴づける要素である.アリスタエウスのエピソ-ドは、このように絶えず失敗から成功を生み続けてきた人間の営みを象徴しているように思われる.一方のオルペウスのエピソ-ドについてもこの悲劇が我々の心を動かすとすれば、それは単に彼がfurorによって滅びるからではない.furorにとらわれる点では、人間も動物も変わらないことがいわれていたのである.われわれがこの物語に寄せる共感は、彼が生きるものの弱点として与えられた諸条件(furorにとらわれやすく、死によって敗北する定め)に対して、どこまでも誠実に立ち向かった「人間らしさ」に寄せられるのであろう.逆にもしオルペウスが妻への執着心を放棄していたら、このエピソ-ドの持つ緊張感が損なわれることはいうまでもない.Verg.はLucr.とは違ってcuraを否定し切るのではなく、むしろ人間社会から欲望や苦悩を取り除くことは不可能であること、しかしそれによって精神が絶えず研ぎ澄まされ、積極的に生きる可能性も開けることを示唆しているように思われる.それはまた、黄金時代を終結したユピテルの時代の正当化の試みでもあっただろう.以上見てきた様々な形でのLucr.的モチ-フの導入と改変も、まさにこの目的のもとで理解できるように思われる.
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最後になぜ「アリスタエウス物語」が第4巻の後半部に位置しているのか、という構成上の問題について触れておく.この問題を考える上で、再び第2巻の「農耕賛歌」に注目したい.ここには、従来Geo.の中心思想であるとされるヘシオドス(以下Hesiod.)的な労働と正義のモチ-フ(2.460; 467; 472-474;513-514;516)が色濃く出てくるだけでなく、Lucr.的な「心の平静」(467 secura quies;468 otia)を楽しむ農夫の姿も描かれる.さらにこの農夫の生活がロ-マ的pietasと結びつけられ(473;514-515)、ロ-マの発展を支えてきたといわれる時(532-535)、ここにおいて、Hesiod.とLucr.の主要モチ-フを取り入れたGeo.の文明観の集約を認めることができるだろう(18).他方第4巻のエピローグについてもすでに見たように、アリスタエウスのエピソ-ドはこのようなGeo.の文明観を改めて想起させ、一方オルペウスのエピソ-ドは後半の愛と死のテ-マと深く関連している.つまり、第2巻と第4巻のエピロ-グは、ともに先行する主要なテ-マを集約する箇所であると考えられる.しかし、ここで次の3つの問題が生じる.
(1)「農耕賛歌」の中心部では、先に触れた自然観や幸福観をめぐる対置に加えて、「自分は本当は自然哲学の詩を書きたいのだが、それが無理なら、無名のまま川と森を愛したい」(2.483-486)という意味のことを述べている.このような自己の立場の表明は、今確かめた農耕生活を賛美するテ-マの中では、やはり唐突な印象を与えるといわざるをえない.ではこの表明自体にはどのような意義があるのか(19).
(2)「農耕賛歌」に続く第3巻の序歌では、アウグストゥス(以下Aug.)を主人公とする叙事詩を書く約束が行われている中で(20)、「私も地上から引き上げられ、勝利者として人々の口の端に上る道が試みられねばならない」(3.8-9)といわれている.このようにAug.の神格化になぞらえて、詩人としての自負心を表明する立場は、今見た「無名のまま、川と森を愛したい」と述べる詩人の立場と明らかに異なっている.ではこのコントラストはどのように解すべきであろうか(21).
(3)「アリスタエウス物語」全体にはホメロスの影響が見られ、それまでの農耕のテ-マとは異なる叙事詩的な色合いが出てくる点が注目される(22).またオルペウスのエピソ-ドは、表現上の対応などを根拠として従来『牧歌』(以下Ecl.)の6歌や10歌を想起させることがいわれる(23).ではこれらの事実は何を物語るのか.
これらの問題を考える上で、第4巻のいわゆるスプラギスと呼ばれる箇所に注目したい(24).Verg.はこの全巻を締め括る箇所において、およそ次のように述べている.「私は畑の耕作、家畜の飼育、また樹木について歌った.一方偉大なるカエサル(アウグストゥス)は、底深きエウフラテス川の傍らで、戦の雷を放ち、勝利者として服従する人民に法を与え、天への道を目指して進んだ.その間、うるわしきパルテノペは誉れなき閑暇の仕事において活躍した私ウェルギリウスを養ってくれた.その私とは、かつては牧人の歌を戯れに歌った者である.若き日に大胆にもティテュルスよ、枝を広げたぶなの木の下でおまえを歌った者である」(4.559-566).ここでは詩人が過去にEcl.を歌ったこと、そして今Geo.を歌い終えたことを告げているだけでなく、他方Aug.が過去に戦いの勝利をおさめ、今平和をもたらし、未来に神となることが示されている.つまりAug.の業績と対置する形で、詩人の道程が語られていることがわかる.このような「詩人とAug.の対置」というモチ-フが第3巻の序歌に見られることについては今見たところである.一方、ここで再び「農耕賛歌」の対置に注目すれば、先に触れた「無名のまま川と森を愛したい」という詩人の立場は、表現の対応からEcl.の詩人の立場を表すことが注目される.2.485-486 では川、谷、森といったEcl.的キーワードが認められ、493-494ではパンやシルウァヌス、ニンフの姉妹といった田園の神々が言及されている(25).つまり、「農耕賛歌」の中心部分では、Ecl.の詩人としての立場がLucr.の立場と対置されるのである.またすでに見たように、「農耕賛歌」はこの対置を包みながら、Geo.の詩人としての理想を語っている.とすれば「農耕賛歌」と第3巻の序歌は一体として、過去にEcl.を歌い、今Geo.を歌い、そして未来には叙事詩を歌う詩人としての道程を示唆していることになる.
次に、「アリスタエウス物語」について考える.すでに見たように、この物語の構成は、オルペウスの悲劇を、アリスタエウスによる技術発見のエピソ-ドが包み込む形を取っている.ここで、従来いわれるように、愛と死のテ-マをめぐるオルペウスのエピソ-ドとEcl.(特に6歌と10歌)との関連を重視し、一方アリスタエウスのエピソ-ドとGeo.的な文明観との関連を重視するならば、この物語は構成上「農耕賛歌」と対応しながら、過去にEcl.を歌い、今Geo.を歌う詩人の足取りを暗示することになるだろう.このように「アリスタエウス物語」の全体が、Verg.の詩作の道程を反映する、即ち、さながらスプラギスにも似た意味合いを持つものと見るとき、この物語が一見唐突に、叙事詩的色合いを帯びている理由も、容易に理解できるのではないだろうか.Verg.はちょうど詩の「真ん中」で、つまり第2巻のエピローグにおいて、前半のテ-マをまとめつつ、さらに、過去から未来にかけての自己の詩の在り方を示唆していた様に、「アリスタエウス物語」というこの詩の「終り」の部分においても、一方では詩全体のテ-マをまとめながら、他方では過去にEcl.を、今Geo.を、そして未来にはやがて叙事詩を歌う詩人としての道程を暗示しているように解される.このように見る時、「アリスタエウス物語」は今挙げたまさに2つの機能を併せ持つ箇所として、詩全体を締め括るに相応しい物語であると考えられる.
注
(1)ServiusはGeo.第4巻の後半は本来ガッルスを称える箇所であったが、その失脚後にAug.の命令で削除され現在の「アリスタエウス物語」の形に改められたという.cf. Seruius, Seruii Grammatici qui feruntur in Vergili carmina commentarii, rec. G.Thiloet H.Hagen, Vol.2, Hildesheim 1961 (Leipzig 1884), ad Ecl.10.1, Geo.4.1.
(2)cf. C.G.Perkell, A Reading of Virgil’s Georgic, Phoenix 32,1978, 211-221.
(3)前者の代表としては、E.M.Stehle, Virgil’s Georgics: The Threat of Sloth, TAPA 104, 1974, 347-369.後者の代表としては、S.P.Bovie, The Imagery of Ascent-Descent in Virgil’s Georgics, AJP 77, 1956, 337-358.
(4)「農耕賛歌」ではLucr.の立場と対置される形で、Verg.の自然観や幸福観が言及される.この対置の意義については、山下太郎、「Georgicaの独創性:「農耕賛歌」の解釈をめぐって」、京都大学西洋古典研究会『西洋古典論集』(以下『論集』)6, 1989, 29-51参照.
(5)cf. R.F.Thomas, Virgil: Georgics, Cambridge 1988, ad 1.133-4.
(6)山下『論集』6 32ff.参照.
(7)例えば、Lucr.1.80ff.参照.
(8)cf. G.B.Miles, Georgic 3.209-294: Amor and Civilization, CSCA 8, 1975, 177-197.
(9)cf. Thomas, op.cit., ad 2.325-35.
(10)cf. G.Kromer, The Didactic Tradition in Vergil’s Georgics: Ramus Essays on the Georgics, Bristol 1979, 7-21.
(11)cf. W.Liebeshuetz, Beast and Man in the Georgics, G&R12, 1965,74.
(12)このエピローグでは死の恐怖(3.539: cura domat)を前にした祈り(3.486-488),勤勉や徳行(3.525: quid labor aut benefacta iuuant?),技術(医術)(3.549)の無力が示される.
(13)Lucr.によるreligio批判については、例えば1.80ff.,3.51-54参照.
(14)cf. W.Liebeshuetz, The Cycle of Growth and Decay in Lucretiusand Virgil, PVS 7, 1967-68, 30-40.
(15)例えば、3.59ff.参照.
(16)cf. 5.1418-1424.
(17)cf. C.Segal, Orpheus and the fourth Georgic: Vergil on Nature and Civilization, AJP87, 1966, 307-325, J.Griffin, The Fourth Georgic,Virgil, and Rome, G&R 1979, 61-80, Perkell, op.cit., 211ff.
(18)山下『論集』6,40-42参照.
(19)この問題についてはF.Klingner, Uber das Lob des Landlebens in Virgils Georgica, Hermes 66, 1931, 159-189, Thomas, op.cit., ad 2.475-494. P.Hardie, Vergil’s Aeneid: Cosmos and Imperium, Oxford 1986, 33- 51参照.
(20)cf. Thomas, op.cit.,ad 3.1-48, L.P.Wilkinson, The Georgics of Virgil, Cambridge 1978(1969), 165-172.
(21)cf. Thomas, op.cit., ad 2.475-494.
(22)「アリスタエウス物語」に反映するホメロスの影響としては、Geo.4.321ff.とIl.1.349ff., Geo.4.334ff.とIl.13.21ff.,Il.18.35ff., Geo.4. 345-346とOd.8.266ff., Geo.361-362とOd.11.243-244, Geo.4.387ff.とOd. 4.351ff., Geo. 4.406ff.とOd.4.456ff., Geo.4.433ff.とOd.4.411ff., Geo.4. 475-477とOd.11.38ff., Geo.4.511ff.とOd.16.216ff., 19.518ff., Geo.4.555-558とIl.2.89などの対応が挙げられる.
(23)A.J.Boyle, In Medio Caesar: Paradox and Politics in Virgil’s Ascraean Song: Ramus Essays on the Georgics, Bristol 1979, 65-86, esp.67-68.
(24)スプラギスの解釈をめぐっては、大西英文、「「ブーコリカ」から「ゲオールギカ」へ」,『西洋古典学研究』28, 1980, 44-55参照.
(25)cf.Thomas, op.cit., ad 2.485-486, 486, 490, 493-494.