前回の振り返り
「ベルリンの戦勝記念塔の頂上にあるウィクトーリア像。「ゴルトエルゼ」の愛称で親しまれる」(ウィキペディアより)。
fortūnaは「運命、運命の女神」を意味する。
-aで終わる女性名詞(第1変化名詞)は「女神」を意味する場合がある。
例として「勝利の女神」(Victōria)、「運命の女神」(Fortūna)、「正義の女神」(Jūstitia)、「噂の女神」(Fāma)など。
fātumとfortūna(それぞれ英語のfateとfortuneの語源)。「運命」を意味する二つの言葉はラテン語における意味が大きく異なる。
人は運が「いい」とか「悪い」と言うが、その場合の運はfortūnaである。ローマ人にとってfātum(運命)はユッピテルの言葉であり、一人一人の「定め」であり「天命」である。「いい」、「悪い」と呼ばれるものではない。
孔子の言葉より。「志学/而立/不惑/知命/耳順/従心(読み)シガク/ジリツ/フワク/チメイ/ジジュン/ジュウシン」。『論語』為政篇、孔子が自身の生涯を語ったことば――吾十有五にして学を志し、三十にして立ち、四十にして惑わず。五十にして天命を知り、六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず――から、一五歳を志学、三〇歳を而立、四〇歳を不惑、五〇歳を知命、六〇歳を耳順、七〇歳を従心と称する。」(「咄嗟の日本語便利帳」)
叙事詩『アエネーイス』において主人公アエネーアースはvirtūs(ウィルトゥース)とpietās(ピエタース)を備えた理想的人間として描かれる。彼はローマ建国の祖とみなされる。>>あらすじと予備知識(「宮城徳也研究室」)。
fatum(ファートゥム):神々も変えることのできない定まった運命
virtus(ウィルトゥース):戦士としての勇敢さと人間としての美徳
pietas(ピエタース):敬神と親族愛を兼備したローマ的道徳
ピエタースは「運命」(fātum)に忠実であること。piusはその形容詞形。L&Sの定義。”dutiful conduct towards the gods, one’s parents, relatives, benefactors, country, etc., sense of duty.”
ウィルトゥースは「武勇の徳」。labor(労働、苦難)を引き受け、乗り越える力。
ヘーラクレースはvirtūsの手本を示した(「12の功業」)。pius(敬虔な)アエネーアースも同様。exemplum(エクセンプルム、exampleの語源)は「先例、手本」を意味する。アエネーアースはヘーラクレースを、アウグストゥスはアエネーアースをexemplumとし、現在、将来のローマ人はアウグストゥスをexemplumとすべし、というのがウェルギリウスのメッセージの一つ。
ウィルトゥースとピエタースは両立しうるか。一例として、前回紹介したアインシュタインの英文におけるboth living and deadまではアインシュタインのピエタースを示し、”and how earnestly I must exert myself in order to give in return as much as I have received”.の部分は彼のウィルトゥースを示す(研究の諸困難に挑戦し、克服する勇気を示す)。彼のウィルトゥースはピエタースに支えられている。
今日の課題
快楽主義者エピクロス(エピクーロス)哲学について(紀元前341年 – 紀元前270年)。
原子論。幸福(アタラクシア)を人生の目的として追求。
原子論は死の恐怖の追放を可能にする(死はアタラクシアを乱す最大の要因)。
「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」。
「われにパンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる」。
「われわれが快楽を必要とするのは、ほかでもない、現に快楽がないために苦痛を感じている場合なのであって、苦痛がない時には、我々はもう快楽を必要としない」。
ローマでの紹介者として、教訓詩人ルクレテーィウス。作品名は『事物の本性について』(Dē Rērum Nātūrā)。
(参考)。「ルクレチウスと科学」(寺田寅彦)。
ルクレチウスの書によってわれわれの学ぶべきものは、その中の具体的事象の知識でもなくまたその論理でもなく、ただその中に貫流する科学的精神である。この意味でこの書は一部の貴重なる経典である。もし時代に応じて適当に釈注を加えさえすれば、これは永久に適用さるべき科学方法論の解説書である。またわれわれの科学的想像力の枯渇した場合に啓示の霊水をくむべき不死の泉である。また知識の中毒によって起こった壊血症を治するヴィタミンである。
現代科学の花や実の美しさを賛美するわれわれは、往々にしてその根幹を忘却しがちである。ルクレチウスは実にわれわれにこの科学系統の根幹を思い出させる。そうする事によってのみわれわれは科学の幹に新しい枝を発見する機会を得るのであろう。
「ルクレテーィウスの幸福観」。エピクロス哲学の幸福観を余すところなく表現。
「無から何も生じない」(Ex nihilō nihil fit.)。
Nothing comes from nothing.(無からは何も生じない)。cf.「ザ・サウンド・オブ・ミュージック」の歌詞。
「持たず、求めず、気をもまず」。(英国の詩人の座右の銘)。
問い:ウェルギリウスにとって、ルクレテーィウスの幸福観は、ウィルトゥースとピエタースの観点から、肯定できるものであっただろうか?
「農耕賛歌」における二つの幸福観の対置(農夫の生活を賛美する文脈の中で唐突に現れる)。475-494における、『牧歌』の詩人の幸福と『事物の本性について』の詩人の幸福の対置。
現代社会にとってルクレテーィウスの意義。
参考: 『1417年、その一冊がすべてを変えた』(河野純治訳、柏書房、2012年10月)。