授業メモ

2018-11-19 学生の答案3

ピタゴラスというギリシャ哲学・数学の大権威が言ったこと・唱えたことは、
「正しい。なぜならピタゴラス先生が言ったことだから」
と論拠もなく、まして自分で考え検証することなしに、権威者の考えを盲信して、真理としてしまう姿勢を批判した。

これは、
論語「子曰く、学びて思わざれば則ち罔し」
パスカル「人間は考える葦である」
デカルト「われ思う、故に我あり」
ノーベル賞本庶先生「教科書に書いてあることは信ずるな、常に疑いを持て」
京都府立大学歴史学科教員陣・教養教員陣「私の言うことが真実とは限らない、疑いを持て、自分の目で見て自分の頭で考えよ」

の全てに通じている考え方であり、人間は考えなければならない、死ぬまで考え続けよ、ということである。

私に言わせれば、当たり前である。

この1年の受験勉強の経験からすると、確かに高校生までの受験勉強では、教師の言う事、教科書の記載は絶対であり、それを鵜呑みにしなければ「効率的に」「受験のための」勉強はできないし、合格もできないのである。

しかし、私のこれまでの38年間の社会人・会社員生活では、駆け出しの1年~2年目頃は別にして、常に考え続けることを強いられてきたように感じる。それは、最初は上司や先輩に「今の状態を批判せよ、否定せよ、そしてより最適なもの、ベストなものを考えよ」と耳にタコができるほど指導されたこともあろうが、いつからか、それは日常の仕事の中で当たり前のこととなっていた。
それはなぜかというと、「現代社会でなぜ重要か」の設問の答えになるが、考えに考えてその上で結果を出さなければ生き残れないからである。「誰かが言ったから」「他人がそうしているから」では、競争社会では物まねに過ぎず差別化もできず、競争に敗れ滅ぶのである。考えることなく、或いは考えが足りずに環境・世の中の変化に対応できない企業・社会・人間はいずれ滅ぶのである。
考えること、それは当たり前のことである。

なお、なぜ生き残るのがmustか、変化に対応するのがmustか、それは別の論点になるのでここでは論じない。 (851文字)

ipse dixit.という言葉は、権威に依拠した独断を戒める言葉である。この言葉によって、キケローは、ピュータゴラス派の人々は論拠としてこの言葉を使い、師の判断を鵜呑みにして自分では考えていない点を批判している。

では、この言葉がなぜ現代でも重要とされるのか。現代日本の大学進学までの教育事情から考えたいと思う。

そもそも、日本の中学高校の学習内容は、受験対策という点に重点が置かれており、そこで求められているのは、正解を知識として蓄える力や正解にたどりつく力ばかりだ。つまり、学校や塾の講師、あるいは参考書がいとも簡単に権威となり、それを鵜呑みにし、自分の頭では考えず作業的に問題をこなす生徒を生みだす土壌が形成されていると言える。

一方、現実の社会では、正解の無い問題に取り組む必要に迫られる。その際、大切なのは自分で考え、その意見を交わし合い、その時々でふさわしい答えを創造するというまさしくキケローが念頭に置いていた議論である。しかし、自分の考えを作る習慣を作ってきていないとそういった議論に参加することはできない。

このように、思考を排除しようとする期間と思考と向き合う期間とのギャップを生じさせないようにする上でこの警句は覚えておくべきものであると考える。

次に、この警句を特に意識すべきなのは誰かを考えたい。もちろん万人にとって重要な語であるが、私は、教える側の人間こそ覚えておくべきだと思う。というのも、教える立場の者は権威的な存在になりやすく、学ぶ側から思考を奪ってしまいがちになる。したがって、権威側の人間が、自身の考えを相対化し、他の見方もあるという点を伝えることで、学ぶ側にも考える機会を与えることが重要であると考える。

以上より、誰もが自分で考えるという姿勢を持ち続けられるように、この警句は現代でも、とりわけ師となる側に、大切にされるべきである。(773文字)

ipse dixitは先生がおっしゃったことを理論などには関わらず盲信することである。キケローは権威よりも理論の説得力が大切であると考えていた。故に先入観が支配的であるipse dixitという言葉の理論の説得力を重要視しないところを批判した。また、権威を盲信するというところから分かるようにipse dixitでは問題意識を持つということをしない。この問題意識を持つということは現代科学にも繋がりのある哲学的思考の根底にある重要なものだ。よってipse dixitを批判し、問題意識を持つことは現代社会においても重要である。(231文字)

キケローが批判した、「権威に依拠した独断的断定」とは、どういうことか?

漢語における子、ピタゴラス教団におけるピタゴラスをはじめとして、現在の学生にも先生の言うことを盲信的に聞き入れ、疑わないことが多いと言う。私自身、高校時代に教えていた中学生のバスケットボールチームでは、疑われることがほとんど滅多になかったことを思い出し、そんなことがなぜ起こるのかを考えてみたい。

なぜこのような事態が起きるのかということを考えることが鍵になると思う。

私が思うに、その理由は、「立場の違い」が生じているというところにある。「先生」と「生徒」という言葉には、「物事を(深く)理解している者」と「物事を(全く)知らない者」であるというイメージがつきまとう。そうなれば、知らないのだから物事をいう資格はない、理解しているのだからその人は正しい、と言った先入観を持ってしまうのだ。この先入観を持った物事の学び方を、「権威に依拠した独断的断定」ということだと言える。
多くの場合、ここまで極端には行かないが、多少はそう認識してしまっていると思う。それでも学生が勉強し、真理を追求しようとでき続けているのは、多くの先生方が正直であり、また嘘をついても大抵ネットや自然が、それが間違っていることを教えてくれるからだろう。

つまり、キケローが批判したことはここにあると考えられる。この先入観こそ批判し、取り払うべきものであり、まず、その言葉が本当に正しいのか、そして、その言葉が指すもっと深い意味はなんなのかを考えるべきであると考えているのではないだろうか。

それは、学生と先生、双方からの努力が大切であり、現状では立場の差異、そして時間を惜しむ余裕のない状態こそ、真の敵である。「先生」と言う立場の者は言うことを聞かせることを目的とするのではなく、生徒にとっての真の学び、つまり学生が自分で掴む真理を目標とすべきである。「生徒」は、もっと批判的で手探りな思考を身につける必要があるのだ。(825文字)

キケローのipse dixit.(先生が言われたから)は、自分の意見が誰か他の自分より上の人(年齢、身分、経歴などにおいて)の意見をそのまま写し取ったものである者、またその行為を批判していると思われる。これは、自ら考えずに、上の人の言うことが絶対で真であるということは、考えることを衰退させ、適切な議論ができなくなると警告している。

つまり、他人の言ったことをすべて信じるのではなく、疑い、議論をしなければならないということを暗示している。現代社会では、「考える力」が求められ、マスメディアの情報でさえ実際に起きていることかわからない状態である。このような社会ではipse dixit.ではいけない、ということが実感できる。

しかしipse dixit.は、先生だけでなく「〇〇が言ったから△△」といった形を表して批判しているが、「キケローがipse dixit.と言ったから、先生の言ったことをそのまま鵜呑みにしてはいけない」と言うと、「キケローが言ったから」とipse dixit.の批判対象になるように思われる。また、それを踏まえて、ipse dixit.が本当に正しいことなのかを考えることも「キケローが言ったから本当に正しいか考えている」と、これもまたキケローの言葉の言いなりになっているのではないか。こう考えると、ipse dixit.ちう言葉を知った時点で、どうやってもこの言葉の批判を逃れられないのではないかと思う。

上の議論は置いておき、日本において「守・破・離」という言葉とipse dixit.の関係を考えてみる。「守・破・離」の「守」は師の教えを「守る」ことを指し、まるでipse dixit.の言うことと反対のことを指しているように思われる。一方で、「破」、「離」はipse dixit.のニュアンスと似ているように思われる。

確かに「論語」において「子曰」で始まる文章が多く、東洋においてはそのようなipse dixit.の避難対象となる考えが広まっていたかもしれないが、それを踏まえた上での「守・破・離」はipse dixit.とは異なるアプローチでの解決策の探究方法ではないかと考えた。この2つの言葉は、東洋と西洋の考え方の違いを対照しているように思われる。(833文字)

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