愛は遠ざけるべし

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ヘーローとレアンドロスの悲劇について、ウェルギリウスは『農耕詩』第3巻258-263で次のように言及しています。

「恐ろしい愛に身を焦がす、かの若者を想え。彼は真暗な夜更けに、嵐が吹き荒れ波立ち騒ぐ海峡を泳ぎ渡る。彼の頭上には天の巨大な門が雷鳴を発し、断崖に突き当たる波は引き返せと叫ぶが、哀れな両親も、まもなく嘆きのあまり死ぬことになる乙女も、彼を呼びとめることはできない。」(河津千代訳)

このエピソードは「人間にも動物にも愛は変わりなく襲いかかる」という考え (amor omnibus idem) を裏付ける具体例として語られています。

一方、詩人は先行する箇所で、「愛を遠ざける必要性」を強調しています。いわく、「家畜を愛や盲目の愛の刺激から遠ざけることほど、その体力を強める上で効果的な世話はない。」と。

この言い回しは、エピクロス派の詩人ルクレーティウスの表現(4.1052以下)をふまえています。

・・・従ってこのように愛の神の矢に打たれた者は――女らしい体つきの少年がその矢を放つにせよ、女が体全体から愛の魅力を放つにせよ――矢を放った者と交わって、己の体から溢れる液体を相手の体に注入せんと努めるものである。なぜなら無言の欲望(cupido)が来るべき快楽を予感させるからである。これが我々の愛(Venus)であり、ここから愛の名称も生まれてくる。また、ここから愛のあの甘い滴が心の中に滴り落ち、けだるい苦悩が後に続く。例えば、愛する相手が目の前にいない時でさえ、その面影は眼前にあり、相手の名前が耳元で甘美に響くことがあるが、そのような面影は断じて退けるべきであるし、欲望に火をつけるようなものは何であれ、遠ざけなければならない。心を他に転じ、体内に集まった液体はどのような肉体にでも放出するがよい。いったん一人の相手に惚れ込んだ場合でも、懊悩や頑固な苦しみを胸の内にとどめたりしてはならない。初めの傷を新しい刺激によってかき乱し、その傷がまだ新しいうちに、移り気な愛にわざと翻弄されながら、その治療に当たったり、心を他に転ずることができなければ、恋の傷はやがて大きく成長し、心中に温存することで慢性化する。日毎に狂気がつのり、苦悩もついには深刻なものとなる。

ウェルギリウスの場合、たしかに家畜の世話と関連づけて「愛は遠ざけよ」と述べていますが、初めに触れたヘーローとレアンドロスの例でもおわかりいただけるように、そうすることがむしろ不可能な現実を──第4巻エピローグの「オルペウスとエウリュディケの物語」とともに──強調しているように思われます。この点がルクレーティウスとの相違点です。

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)
ルクレーティウス 樋口 勝彦

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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