ヘクトルとアンドロマケ

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『イーリアス』第6歌において、トロイア方の戦況は徐々に劣勢に転じます。ヘクトルはヘレノスの提案を 受け入れ、いったん城の中に戻ります。彼はアテネへの祈願を母ヘカベに託し、戦線を離れた弟パリスを叱責した後、妻子に出会います。

ヘレノスはヘクトルの兄弟で、予言の術に長ける者です。彼はトロイアの劣勢を見て、アテネへの祈願を母ヘカベに依頼するようヘクトルに提案しますが、むろんギリシアびいきのアテネは、この祈願を聞き入れません。

妻アンドロマケは夫の姿を見つけると、思わず走りよってきました。そばには、まだ 乳飲み子の赤子を抱いた侍女もいます。この幼子の名前はアステュアナクス。Astu-anaxを直訳すれば「町の主」の意味になります。

ヘクトルが、何も言わずじっと子の顔を見つめて微笑みかけると、妻は 涙を流しながら夫の手を握り、次のように訴えます。

「万一あなたを失うことになったら、墓の下に入る方がずっとましです。あなたが亡くなったら、私にはもう何の楽しみも残りません。どうか哀れと思って、このままここに残り、子を孤児に、妻を寡婦にしないでください。」

これに対してヘクトルは妻にこう語ります。

「わたしは父上の輝かしい名誉のため、また私自身の名誉のためにも、常にトロイア勢の先陣にあって勇敢に戦えと教えられてきた。だが、いずれは聖なるトロイアも滅びる日が来ることを知っている。わたしはそなたが敵にひかれながら泣き叫ぶ声を聞くより前に、死んで土の下に埋められたい。」

ヘクトルは、わが子に手をさしのべましたが、子は目の前の父の姿に怯え、 大声で泣きながらくるりと向きを変え、乳母の胸にしがみつきました。青銅の甲冑が恐ろしく、兜の頂から馬毛の飾りが不気味にたれて揺らぐ様を見て怖じ気付いたからです。

父と母とは声を立てて笑いましたが、ヘクトルはすぐに兜を頭からはずすと、わが子に口づけし、腕に抱いて揺すった後、ゼウスを始めもろもろの神に祈ります。

「どうかこのせがれも私のように、トロイア人の間に頭角を現し、力においても私同様に強く、武威によってトロイアを治めることができますように。また何時の日か、戦場から帰ってきた彼を見て、「あのお方は父君より遥かに優れたお方じゃ」といってくれますように。」

読者はここでヘクトルの運命(=アキレウスに破れる)とともに、アステュアナクス(ヘクトルの子)の運命(=トロイア陥落後、高い塔の上から突き落とされて果てる)を想起することによって憐れみを覚えるでしょう。

こういって愛する妻の手にわが子を渡すと、妻は涙に濡れた顔で笑いながら、懐に子を抱きました。夫はそれを見て哀れを催し、優しく妻をなでてやりながら語ります。

「どうしたというのだ。あまり思い悩むのは止めてくれ。私の寿命が尽きぬ限り、私を冥界に落とすことはできないのだ。人間という者はひとたび生まれてきたからには、身分の上下を問わず、定まった運命を逃れることはできぬ。

さあ、そなたは家へ帰り、機を織るなり糸を紡ぐなり、自分の仕事に精を出し、女中たちには各自仕事にかかるように言いつけることだ。戦さは男の仕事、このトロイアに生を受けた男たちのみなに、取り分けてわたしにそれはまかせておけばいい。」

ここには、当時の死生観をはじめ、夫と妻、父と子の愛情、気遣い、などがありありと描かれています。とくに父の姿を見て子が泣き出す様子、それを見た夫婦が、ほんのつかの間、 憂いを忘れて笑い声を上げる様子などが印象的です。

上に引用した文章の中でも、親子、夫婦の「笑い」と「涙」が交錯して現れています。

イリアス〈上〉 (岩波文庫)
ホメロス Homeros
4003210212

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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